私はただ、彼の目線に立ってみたかったのだろう。



色彩独奏短編集
藍楸瑛(19歳) 編




 藍楸瑛は現在、非常に困惑していた。それというのも目の前の人物があまりに平然としているからである。楸瑛は何の反応も見せない後頭部を眺めながら視線を上に遣った。
 ――ああ、どうしてこんなことになってしまったのだろうか。



 事の発端は数刻前に遡る。楸瑛にしては珍しく忙しかった事務仕事が終わり、久しぶりに後宮へと足を伸ばした日のことであった。後宮にとって『藍楸瑛』が訪れてくるのは何も珍しいことではない――そう、たとえ一部の女官から「ボウフラ」という不名誉な称号を受けようとも、彼を歓迎する人間の方が圧倒的に多いため、大抵の場合において彼は堂々と入り浸っていた。

 その日も、たまりに溜まった鬱憤を少しでも和らげようと、楸瑛は向かったのだった。
 後宮――それは王の后妃とかしずく女官たちで占められる、いわば王のための女の園だ。建前上は男性の出入りなど許されていないし、また現在の混迷している社会情勢の中、まかり間違って王位争いの後に残った后妃達に粗相を働いて立場が不利になってはたまらないと、官吏たち自身が後宮を避けてもいた。
 だから少しも考えていなかった。
 そこに自分以外の官吏――男がいるなど、予想の範囲外だったのである。

「あれ。……ああ、君が噂の『ボウフラ』君だったんだね」

 穏やかに笑いながら話しかけてくる人物は、およそ後宮に似つかわしくない雰囲気を纏っていた。というより態度がどうしようもなかった。まず間違いなく遊びなれた風にも駆け引き上手にも見えない。女官たちに「男」として接しようとしてすらいないかもしれない。楸瑛は深い溜息が出るのを抑えることができなかった。

「……何やってるんですか、先輩。それ、刺繍ですよね」
「うん。やってみるとすごく難しいね。衣に模様付けてくれる職人達に感謝しないと」

 相変わらず問いかけを斜め方向に返してくる相手に脱力する。楸瑛も懇意にしている女官の居室、その中央に備えられた卓に針箱を広げて女官と向かい合うように椅子に腰掛け手ほどきを受ける「先輩」の姿に、思わずここがどこであるのかを忘れそうになる。

「先輩……お願いですからもう少し威厳というものを覚えてください」
「いやだな、こんなに威厳たっぷりに刺繍しているのに。……ああ、ごめんってば。怒らないでよ」

 茶化すような返答に楸瑛のこめかみが一瞬震える。それに気付いたらしい相手は、困ったように謝罪した。
 ――もう、いい。
 楸瑛の頭に「諦め」の二文字が踊る。どうせこの人、半分は本気で言っているのだ。

「藍様もいらしてくださるなんて、今日は千客万来ですわね。お待ち下さいませ。今お茶をお入れしますわ」

 そのやりとりに口元を袖で隠しながら、女官が優雅な所作で席を立つ。その椅子に座る気力すら吸い取られたような気分で、楸瑛は卓近くの長椅子に倒れこんだ。相手は刺繍から目を離さないまま尋ねる。

「お疲れさま。随分忙しかったと聞いたけど、大丈夫?」
「知っていたのなら手伝ってくれてもいいでしょうに。どうせ閑職なんですから」
「他の部署に手出しするほど傲慢になった覚えはないよ。肩でも揉もうか」
「結構です。……先輩」
「ん?」

 その呼びかけにようやくは楸瑛のほうを見た。短すぎて結えない髪の毛が静かに流れる。それが無性に悔しくて何となく顔を背けた。あれ、とが困惑の声を出す。少しスッキリした。
 しかしどうしようかと思う。本当はこのまま女官と一夜を過ごし、翌朝邸に戻って休暇を楽しむつもりだったのだが、がいてはそれができない。何せ、数多の女官と知り合いになりながら、その実一度も関係を持った事がないという、ある意味男として自慢できない記録を更新中の人物である。背徳感甚だしい。そもそも楸瑛がと知り合ったのだって、それに関係して起こったいざこざのせいだった。
 ――少しくらい迷惑かけたってバチは当たらないだろう。
 疲労のせいか様々なことがどうでもいいと思えてくる。楸瑛はを見た。刺繍をしている横顔が楽しげで実に憎らしい。こっちはこんなに疲れているというのに。

「泊めてくださいよ」
「それは俺じゃなくて彼女に言わないとね」
「違います。先輩の邸に泊めてください」
「…………」

 が目を丸くして楸瑛を見る。鼻で笑いたくなった。

「…………そりゃ、構わないけど」
「じゃ、早速行きましょう」
「え、刺繍まだ途中なんだよ。それに彼女も戻ってきてな……ああもう、仕方ないなあ」

 さっさと立ち上がって歩き出した楸瑛の後ろから、が溜息を吐いて針箱を片付ける音が微かに届く。楸瑛は一瞬、片づけを手伝おうとも思ったが――何だか癪だったので、止めておくことにした。



 そして冒頭に戻るわけである。楸瑛はの邸、いや、「家」を見上げてらしくなく呆けていた。帰る手段に軒を用いようとしない、そもそも軒を用意していないらしいことも、てっきり彩七区周辺の高級邸宅街に向かうものだと思っていたのがまさかの下町付近であったことも、この際置いておく。
 ――いや待て。最後のは置いたら駄目だ。

「……先輩は確か、家の嫡男だと聞いていたのですが」
「一応そうだよ」
「……家といえば、国内でも有数の豪商ですよね」
「そうみたいだね」
「………っ、だったら!どうして!!アンタ何考えてるんですか……!!!」

 できることなら楸瑛はこの場で泣き崩れてしまいたかった。目の前に建つのはお世辞にも「邸」とは言えない建物だった。並び立つ下流層の家屋と同じような低い塀に、門はなくただ入り口と思わしき両手を広げれば足りる長さの「塀と塀の隙間」。2,3歩程度歩けば辿り着く家には流石に家人がいるのか明かりが灯されているが、驚くほど小さかった。藍区にある藍家別邸の倉庫の方が大きいかもしれない。
 仮にも楸瑛より何年か先んじて官吏になった「先輩」、それも、ほんの少し、本当に爪の先程とはいえ尊敬してもいる人物の住処がこのような家であると認めたくはなかった。

「これでも一般市民……国民に比べれば多少大きい方だよ」

 そんな楸瑛の考えを読んだのか、が苦笑しながら弁護する。

「…………」
「まあ、初めて見る大きさの家だとは思うけど。入ろうか。いつまでもここにいるわけにもいかないしね」

 軒は入らないから帰してね、と笑って言うに返事を返す余力もなく、楸瑛は家人に藍邸に戻るよう命じると、の後について隙間……門をくぐったのだった。

「お帰りなさい、坊ちゃん」
「ただいま、トメさん、タロウさん」

 両開きの戸を開けて入るなり出迎えた老夫婦に驚くことはなかったが、その名前の不思議な響きに首を傾げた。聞きなれない音の羅列である。不思議といえばこの家の造りもそうだ。いかな楸瑛とて貴族・豪族の邸だけしか見たことがないわけではない。だから、違和感を感じる。「見た」だけで実際に「入った」ことはなかったから、その違和感が何なのかは分からないのだが。

「お湯は沸いてる?」
「ええ、ええ。ちゃんと沸かしてありますよ」
「ありがとう」

 満面の笑みで答えるを疑問に思いながら眺めていると、突然振り向いた目と楸瑛の目がかち合った。

「じゃあ俺、お風呂入ってくるけど。楸瑛はどうする?」
「入浴ですか?休日でもないのに?」
「……そうだった。いや、俺お風呂好きなんだ。じゃあ、悪いけど適当にくつろいでて。タロウさん、俺の臥室(しんしつ)に長椅子入れておいてくれるかな」

 庖厨(だいどころ)に茶の用意をしに行ったらしいトメとは違い、その場に残っていたタロウがの言葉に柔らかな笑顔で頷く。
 ――……長椅子?なぜ、先輩の臥室に?
 それを聞く暇すら与えられず、離れに設置しているらしい入浴所に嬉々として向かったの背を見送りながら、楸瑛はただ流されるままタロウに促され、応接間、というより居間に足を進めたのだった。



 その後しばらくして、頭から湯気を立たせたまま戻ってきたにやっぱり疑念は拭えないまま、絳攸の相変わらずの迷子ぶりや先ほどまでしていた刺繍がいかに上手く出来ていたかなど他愛のないことで談笑し、もともと楸瑛が遅くに後宮を訪れていたこともあって、楸瑛はの寝巻きを借りて、入浴後ですでに寝巻きだったはそのまま就寝することになった。

「で、何で先輩がここにいるんです」
「この家って誰かを泊めるようには造ってないんだよね。だから客間ないんだ。おやすみ」
「流石にそれは家としてどうなんですか!?居間に行けばいいでしょう!」
「それは俺に居間で寝ろってことかな。うーん……」

 長椅子の上で考え込むように唸るを、楸瑛は信じられないものを見る目で眺める。
 そもそも官吏ともあろうものがこのような家に住んでいること自体がおかしいのだ。家人が二人なのは、他のことに比べれば、少ないがいないよりマシだと思える。しかし客間がないのは流石に問題だろう。官吏であれば自然、貴族や豪族との交流が増える。そうなれば招待されることも、招待することもあるはずだ。それなのに此処のような下町、それも十分な大きさとはお世辞にも言えない「邸」。下手をすれば訪れた人間が侮辱されたと判じ、無用な攻撃を受けることにもなりかねない状況なのだ。

「先輩、よく朝廷で生きていますね……尊敬します」
「それ褒め言葉じゃないよね?あ、そうだ、明日は俺も休日だから、トメさんとタロウさんいないよ。よろしくね」
「はい?じゃあ朝餉はどうするんです?身支度も……」
「自分でできるだろう?」

 やだな二十歳間近の男が、と笑って言うに少しムッとして、「できます!」と思わず強い口調で答えてしまった楸瑛は、その後すぐに後悔した。確かに出来ないわけではないが、一から十までと言われると不安なのが事実だった。

「出来ないところは俺も手伝うから。朝餉は町に食べに行こう」

 その言葉に安堵しただなどと、誰が言うものか。



 翌朝、目を覚ますと既に長椅子はもぬけの殻だった。これでも武術を心得ており、腕に多少なりとも自信を持っていた楸瑛の受けた衝撃はすさまじい。昨日よほど疲れていたのだとしか思えない。室(へや)を見回すと、内装は意外と綺麗だということに驚く。暗くてあまり見えていなかったようだ。家具は寝台と卓、椅子、そして昨日持ち込んだ長椅子のみという殺風景ぶりだが、よく見るとそれらも悪い品ではない。流石家といったところか。しかしこれらの家具をが選んだと思えないのは何故だろう。
 予想に違わず、それらが家本邸の家人が選んだ品々だと楸瑛が知るのは、それから暫く経ってからだ。

「おはよう、とてもよく眠れたみたいだね。よかった」

 既に身支度を終えているが室に顔を出す。手には黒塗りの深い盆を抱え、腕に真っ白な手拭いを掛けている。それを卓の上に置くと手拭いを腕から外し、丁寧にたたんで盆の横に置いた。

「これで顔を洗って。水は窓から捨てていいよ。衣装は昨日トメさんが整理してくれておいたから、とりあえず今日は出かけるし俺の服を貸すね。で、身支度が出来たら朝ごは……朝餉を食べに行こうか」
「え?あ……は、はい」

 寝起きに慣れない環境、その上身体的な疲れは取れても精神的には驚くことばかりで逆に疲労が溜まったような気がする。それは楸瑛の反応を鈍らせ、彼にとって間抜けとも思える返事を引き出すこととなった。
 楸瑛は頭を抱えて転がりたくなった。何だこれは。何だこの反応は。恥ずかしすぎる。しかしがいる手前絶対にそんなことは出来ない。するくらいなら出家してやる。コイツにだけは弱みを見せてたまるか。そんな思いが怒涛のように楸瑛の裡に湧いてくる。それは結果的に楸瑛の目を覚まさせる手伝いとなった。

 盆の水で顔を洗い横の手拭いで拭うと、助言通りに窓の外に捨てる。丁度よく衣装を持ってきたの「手伝おうか」という申し出を即答で断ると、盆を持って出て行ったのを確認してから衣装に手を伸ばす。
 ――これくらい、服なんていつも着慣れているのだし……

 そして二刻ほど後、憮然とした表情でに着付けを任せる楸瑛の姿がそこにあった。



「今日は結構良い天気だね」
「…………」
「人の顔に生気があるって良いことだと思わない?」
「…………」
「何が食べたいものはある?提案には出来る限り応じるよ」
「………あの」

 ん、と振り返ったに楸瑛は込めることのできる最大の恨みを乗せた視線を送った。ヒュオ、と風を切る音がして、の後頭部を木片が掠めていく。そのままそれは民家の開け放しの戸に吸い込まれ、それと同時に激しくなった破壊音が耳をつんざき、砂埃が楸瑛との足を撫でた。
 楸瑛はもう何が起こっても驚かないようにしようと己に課し、強い自制心で耐える。あの騒音の元を断ち切りたい、この場から早く立ち去りたい、いっそこのまま帰りたい。そう考えるが、に主導権を握られている状況だけは打破しておきたかった。
 だから、着ている服が袖の狭い庶民のものであることと、現在地が貴陽で最も治安が悪いといわれる下町の中の下町、以前「檻」と呼ばれた特殊な貧民街があった場所に程近い所であるのを許容することはできない。
 つまりここもまた貧しい民の集まる場。食事に何が出てくるか分かったものではない。
 ここは強制的にでもに方向転換を促し、藍家御用達の料亭に連れ込むのが得策だろう。

「別に、食欲がわいてこないので」

 いいです、と続けようとするもののは既に歩き出していた。思い切り出鼻を挫かれ、楸瑛は怒りまかせにそこらで喧嘩を続けている荒くれ者を拳一つで地に沈める。を見ればその光景をただ眺めているようであり、責める言葉の一つでも飛んでくるかと待ち構えていた楸瑛の意に反し、「まあいいか」とでも言うように手招きをした挙句、「この店でいい?行き着けなんだけど」などとのたまった。
 指し示す指の先にあるのはどう見てもただの民家である。しかしよく周りを見ると、腐りかけた木切れに達者とは言えない字で何か書いてあった。擦り切れた文字は既に解読不可能だったが、おそらく看板なのだろう。

「こんにちは。お姉さん、いつもの二人前でお願い。あ、この人の分はちょっと多めで」

 俺と違って肉体派だからと、何かあらぬ誤解でも受けそうな言葉を吐きつつ、は民家の外に備えられた壊れかけの椅子に腰掛け、向かいの席に楸瑛を促す。立ったままでいるのも据わりが悪く、しぶしぶ楸瑛もそれに倣う。ほどなくして民家からやせ気味の中年女性が出てきてに笑顔で挨拶をした。どうやらこの女性が「お姉さん」らしい。楸瑛も普段から女性と多く接しているためその呼び方に疑問を抱くことはないが、がそういう「女性のあしらい方、褒め方」を実行するのを見るとどうにも違和感を覚えた。理由は知らない。
 ややあって出された食事は少しの野菜が入った粥で、楸瑛のほうにはその他に少量の副菜がついた。

「言うの忘れてたんだけど、俺、あんまり油使った料理って食べられないんだ」

 食事を前に黙り込む楸瑛にが笑って嗜好を話す。だからか、と楸瑛は納得した。の偏食ぶりは絳攸から聞いている。といっても絳攸自身もその養い親である紅黎深からの情報であるのだそうだが、粥や煮込み料理、蒸し物を好み、炒菜(いためもの)や揚げ物の類はさりげなく避けるらしいのである。それを聞いたときは好き嫌いが激しいのかと思ったが、話を聞く限りそれは食材でなく調理法がまずかったらしい。
 どこか達観したところのある「先輩」の俗物的な一面を見たような気分で、楸瑛は粥に口をつけた。素朴すぎる。薄い。味に繊細さがない。欠点なら幾らでも上げられるが、過ぎた疲労のため昨日の夜から何も入れていない胃にはとても優しかった。

「――んだとこの野郎!!!」
「ああ!?やるか!?」

 そんなほのぼしているように見えなくもないひと時を、野太い声が台無しにする。楸瑛は様々な我慢と怒りが沸点に達しそうになるのを抑えると、その出所を見た。
 二人のいるすぐ近く、道の真ん中で、一見してこの界隈の住人と分かる男が二人、穏やかでない様子でにらみ合っていた。双方服装はみすぼらしく髪はほつれ髭は伸び放題だ。貴陽は、というよりこの国は現在、王位争いの爪あとから必死で回復しようとしている。その中ではこうした国民同士の争いも絶えないと聞いた。しかし国民と官吏、国民と商家の軋轢の方が多く、楸瑛が関わるのは官吏という事情から後者ばかりであったから、楸瑛はこのとき初めてこうした純粋な騒動――喧嘩を見たのだった。

「若いねえ」

 安全な場所に避難させるべきか、と表情を窺った先の人物は、そうした楸瑛の心を知らずに笑う。お前が言うなと突っ込みたい。楸瑛より一つ年下であるはずのは、たまに己の年齢を忘れているとしか思えない言動を取る。楸瑛も周りの同世代に比べれば精神年齢は高い方だが、はそれとはまた別の方向に年寄りくさい気がしてならない。再び胸の裡に熱い何かが湧き上がるような錯覚に陥る。

「止めなくていいんですか」
「いや、好きにやらせた方がスッキリするんじゃない?」
「それは……そうですが」
「こうして何かを食べるのも喧嘩するのも、生きていてこそ。周りに飛び火しそうになったら止めるよ」

 しかし、そうして遠巻きに見ている人が多いから、いつまでたっても治安は回復しないのではないか。人がそこまで善良な生き物でないことは、藍本家に生まれた楸瑛は身をもって知っている。理解せざるを得なかった。闘争心の断絶が不可能だからこそ、朝廷があり、軍があるのではないのか。
 この国を正常に動かすために、楸瑛とら「官吏」がいるのではないのか。

「……すみません。先輩の意見には賛同できません。止めてきます」
「行ってらっしゃい、気をつけて。――ああ、でも今行ったら……」

 危ないよ、とが止めるのと、楸瑛の額に木片が飛んできたのは同時だった。当たったのが側面だったから良かったものの、これがささくれ立った断面だったら怪我どころではすまない。楸瑛の怒りは頂点に達した。

「お前たち――」

 制止の言葉をかけようとして、それはの小さなうめきに遮られる。驚いて振り返ると、どうやらにも何か当たったらしくこめかみの辺りを押さえていた。

「せ、先輩!?大丈夫ですか!?」

 あ、とが何かに気付くように声を上げ、手を見た。そこには真っ赤な血が付着しており、こめかみを見れば細く血が流れ出している。何が当たったのかは知らないが、硬いものであるのに違いはない。――痛い。 
 楸瑛は自分の中で何かが切れる音を聞いた。ゆっくりと未だ喧嘩中の国民を見る。
 それからの記憶はとても曖昧で――



 気付けば楸瑛は、道の真ん中に大の字になって倒れていた。上からが覗き込んでいる。

「こんにちは。よく眠っていたね。やっぱり疲れがまだ取れていないのかな」
「……先輩、それは気絶していたというんです。あと、お世辞でいいですから心配してください」
「心配したよ。怪我はほとんどないみたいだけど、どこか痛いところはある?」
「いえ、特に。……まったく、何て野蛮なんだ……」
「それならいいんだ。あ、できれば藍家の影達に、国民への制裁はしないように言っておいてね」

 呟きの後半を綺麗に無視し、は楸瑛の真横に回ると手を差し出した。痛くないと言ってしまったが、実際は地面に接していた背中がとても痛い。釈然としない思いを抱えながらもその手を掴み起き上がった楸瑛は、背中の土をはたくの手にしばらく集中した。

 楸瑛が己を忘れて止めに入った――というより参戦した喧嘩は、結果として傍観していた荒くれ男共を引き寄せることになった。最終的に初めの人数の十数倍にまで膨れ上がった男たちは、一人残らず楸瑛の手で地に伏したが、その代わり武器も持たずに素手で相手をした楸瑛自身も、昨日の肉体的疲労と本日の精神的疲労が相まって倒れることになったのだった。

「武官に転向しようかな……」
「いいんじゃない?向いてるよ、多分」
「転向したら絶対、傍観なんてしません。血を流して痛い目を見ることのどこがいいんですか」

 それは全くの正論であった。誰でも痛い思いはしたくない。だから歴史の中で人は法を得て、罰を作った。教養として習っただけの歴史であるが、その意味を今ほど痛感したことはない。
 はやはり少し笑んで答えた。

「でも、生きていると分かるだろう?」
「意味がよく汲み取れませんが」
「暴力や血は俺も苦手だよ。けれど、痛みも、血も、殴るための拳も、生きている人間しか持っていないんだ」

 だから、治安が悪いと分かっていてもついここに来てしまうのだと、平然と言ってのけるに少しだけ心がざわめく。イラつく。
 ――先輩が怪我してちゃ意味ないでしょうに。
 同時にどこか、置いていかれてしまったような寂しさを楸瑛は感じていた。の言い分は分かる。けれど、「生きている」楸瑛は、のようにどこか遠くを見るような目でその言葉を吐くことはできない。
 命も、痛覚も、身体も、全てが楸瑛の手の中にある。だが、それはとて同じことではないのか。

 「」という人物のことを、楸瑛はよく理解できないでいた。家柄も、財産も、容姿も、身体能力も、楸瑛はに勝っている。それは決して自惚れではなく、他者評価でも同じ結果が出るだろう。頭脳面でも、商家で育ったと違い、藍本家で最初から「人の上に立つための」教育を施されてきた楸瑛の方が、朝廷という場においては優位に立っていると言えた。
 それなのに楸瑛はいつも、に置いていかれるような気分を味わうのである。

 そろそろ帰ろうか、とが手を伸ばす。楸瑛はその顔を見上げた。どこまでも穏やかな瞳が見返してくる。

『藍様』

 不意に、昨夜の女官の言葉を思い出した。
 刺繍をしていた、彼の家、就寝、目覚め、着せられた庶民の服、訪れた貧民街、そして朝餉。
 ――ああ、そうか。
 
先輩」
「ん?」
先輩」
「なに?」
先輩」
「…………」

 意図を理解したのか、が苦笑した。

「なんだい、楸瑛」

 だから楸瑛は、いつまでもに追いつけた気になれないでいる。



 の家に戻った楸瑛は着慣れた衣装に袖を通し、居間でくつろいでいた。は庖厨に茶を淹れに行っている。家人が不在で湯から沸かさねばならないから、しばらくかかるだろう。
 藍家との連絡役を担っている影の気配を感じながら、楸瑛は手を翻した。

「――下がれ」

 無言のまま気配だけが消えて、楸瑛は一つ溜息をついた。
 影は大層気分の悪い情報をもたらしてくれたのだった。

 昨日、楸瑛が訪れた女官が、先ほど拘束された。どうやら先だっての王位争いの際に慕っていた公子を喪ったことで私怨を抱き、その矛先を死の原因となった公子に向けたらしい。
 手段は複数。遅効性の毒入りの茶、同じ毒を塗った針で刺繍した手拭いの贈り物など、果ては心中まで計画していたらしい。部屋に呼び出したはいいものの、結局前二つは失敗し、隠し持っていた短刀で襲おうとしていたところを他の女官に見つかり、衛兵に押さえられたということである。
 楸瑛の背中を冷や汗が伝う。その女官を楸瑛が訪れたのは邸に帰るのが面倒で、しかし重なった疲労から少しでもいい寝床が欲しかったからである。やはり判断力は低下していたようだ。
 もしもあのまま留まっていたら――楸瑛は寝こけ、確実に巻き込まれていたはずである。

「……刺繍?」

 はた、と気付く。針に毒、刺繍した手拭い、女官。共通するのは――全てが関わったことだ。
 そもそも何故昨日に限っては後宮にいたのだろうか。冗官上がりの閑職でしかない彼は、楸瑛より終業時間も早い。女官との不名誉な浮名も、冗官に落ちる前のものである。あの時間にまだ朝廷に残っているのはあまりに不自然であった。
 ――知っていたのだろうか?
 知っていて、あの場にいたのだろうか。針箱を片付けていたことも、よく考えれば女官も刺繍をしていたのだからが帰るからといって片付ける理由はどこにもない。――もし、毒針を抜き取るためだったとしたら。

 楸瑛は頭を振った。もう、過ぎたことだ。もちろんこれを教訓により洞察力を高めることは忘れないが、について考えるのはあまりに無益である。
 敵になる可能性を持つ者ならいざしらず、にその気があるとは思えなかった。いや、思いたくないのかもしれない。彼にはずっと手を差し伸べていて欲しいのだろう。あの瞳を失いたくないのだ――

「……断じて、違う!!!」

 その考えに行き着いた辺りで楸瑛は我に返った。今、何か恐ろしいことを考えた気がする。
 ろくな実績もなく、あまつ女官との変な噂を立て、任官してすぐ冗官に落ち、女官関係の不始末から楸瑛に助けを求め、散々巻き込んだ挙句楸瑛に疲労感だけを残してさっさと復職した人物である。
 多少脚色が入っている気もするが、楸瑛にとっては間違いなくそういう人物だ。うっかり尊敬したこともその手を求めたこともあったが――それは何かの間違いだ。気の迷いだ。そう、今ここにいることだって疲れていたから自暴自棄になっていただけに違いない。少なくとも楸瑛はそう信じようとしている。

「おまたせ。ごめん、中々火が点かなくて」

 そう言って盆に茶を乗せ居間に入ってくるを、楸瑛はじっと見た。
 ――官吏というには威厳が足りない。向上心もあるように見えない。そもそもこの家に家具が足りない。
 はこれでも楸瑛の先輩――「先の輩」である。官位は同じくらいだが、経験年数から目上の存在として扱っている。また、不本意ながら憧れている部分がないと言えなくもない。
 ――ならば後輩である己が取るべき行動は自ずと決まってくるのではないか。

「先輩、今日も泊めてもらいますよ」
「………はい?」
「今から藍家に連絡して、家具を一揃い見繕ってもらいます。あと装飾品も買いましょうか。出来れば引越して頂きたいところですが……」
「いやだ」
「でしょうね。そこは目を瞑ります。では早速」

 楸瑛が指を鳴らすと、どこからともなく影が現れた。指示を出す楸瑛の姿をは呆気に取られて見守る。伝達を終えた楸瑛は、未だ服を着替えていないを見ると溜息をついた。

「着替えますよ、先輩」
「家具いらないよ。足りてるから」
「そうですか。じゃあせめて私が泊まるための寝台くらい入れてくださいね」
「………本当に泊まるの?」
「泊まりますよ。何言ってるんですか。まあ、最初は驚きましたが、国民を見るには絶好の場所ですし」

 その言葉に首を傾げたは、きっとそれが建前に過ぎないということに気付いているのだろう。しかし真意を測ることはできないはずだ。なぜなら、楸瑛自身にも分っていないのだから。

「……客を呼ばないように造ったのに。これじゃニホン家屋計画が台無しだ……」

 ニホン、という聞きなれない言葉を問い質そうとも思ったが、それより入れる家具を減らす指示に回るほうが先だと判断し、聞き流すことにした。

 本気で落ち込んでいるらしいの哀しげな表情を眺めながら、夕餉は藍家でよく使う料亭にしておこうと、楸瑛は影を呼び出すと素晴らしい早さで予約の取り付けにかかったのだった。





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注釈:
 中華料理=油を多く使用する というのは嘘ではありませんが、油を「使うことの出来る」調理法ができるためには、熱伝導性の高い鉄鍋、また薪以上の火力を持つコークス(石炭)のような前提条件が必要となります。彩雲国では、確か鍋には銅が使用されているとの記述がありましたから、おそらく鉄鍋は普及していないか、あっても一部の貴族・豪族のみ使用しているのだと推測されます。一説には油を使った料理は宋代の成立とも言われていますので、今回テキスト中にて言及した、「彩雲国(唐代モデル)のもてなし料理には油が多く使われている」という記述は、古代中国史的には間違ったものである可能性が高いです。武器に使用する鉄を料理道具に流用しようという発想がいつごろ出来たのかまでは調べ切れませんでした。
 なので、そこは古代中国ではなくクロムも産出される彩雲国のこと、「(超)上流層は鉄鍋を使用していた」ということで目をつぶっていただけたらと思います。リサーチ不足で申し訳ありません。

2008.6.19
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