天球ディスターブ 2-4



 翌朝、はナタナエルに頼んで馬車を別に用意してもらい、仕事が始まる1時間前――この世界の時間の流れ方は元の世界と同じで、時計も60進法である――に庭へと赴いた。
 どのくらい早く来ればいいのかというのが分からなかったからであるが、それ以前に、本当にセラに教えてもらえるのだろうかという不安感があった。セラを不審に思っているわけではない。寧ろ、の知識が正史だとすると、彼女だけが最期までルックに付き添っていたのだから、それだけで十分信頼に足ると思っている。

 ただ、もしかしなくとも彼女はとても忙しい日々を送っているのではなかろうかという申し訳なさがあるのだ。そんな中に自分の指導をするのは負担以外の何者でもないのではないかという確信めいた情けなさがある。としてはそうした彼女やルックの忙しさ、転じて行動については正直賛成しかねるところではあるのだが、現時点で反対する大義名分も力もない身としては何をすることもできない。いや、行動する意気地も勇気もないと言った方が正しいのだろう。

(真の紋章を壊すんだっけ)

 誰もいない庭の真っ白で優美なテーブルと椅子、その一つには腰掛ける。初めて見たときは政治の中枢に対し何と不似合いなのだろうと思ったが、こうしてみると神殿の造形自体には非常に似合っていた。
 テーブルを挟んだ向かい側にもう一つ椅子がある。そこに座るであろう人物は今のところ来ていない。

(確か、灰色の未来が嫌だったんだよね)

 真の紋章が宿主に見せる秩序の世界。進むことも戻ることもない停滞した世の中、灰色の未来。ルックはそれを厭い行動を起こした――いや、起こそうとしているのだと記憶している。
 にはその感情が分からない。灰色の世界と言われても実感が伴わないからだ。ゲームとしてならば画面上で見たことはあるが、現実のものとして経験したことはない。
 だから、その世界がどれだけルックに影響を与え、今回の行動に至る絶望ともいえるものを抱かせることになったのかには量ることができない。

(いなくなったら寂しいかな)

 このまま時が過ぎていき、の記憶にある歴史を辿っていくのなら、その終末の向こうにルックは存在していない。敗北する――それは、ちょっとやそっとでは変わらない事象だ。何せゲームのエンディングだから。この物語においてルックはラスボスで、彼とは別の道を行く主人公――天魁星たちに人々の意思は向かう。ただ、やはり寂しいことだとは思う。知り合いがいなくなるのは辛い。二度と会えなくなるのは寂しい。
 何かないのだろうか。これから先もずっと、ルックと、そしてのいる世界で過ごせる方法は。

 ――では、結末を変えてしまってはどうか。ルックが生存する未来を探すのは。

「………」

 は自らの頬を両手で打った。
 それは、それだけは、考えてはいけない。



 しばらくすると小さく衣擦れの音が耳に入った。視線をそちらに向けると案の定、セラが流れるような動作でこちらに向かってくるところだった。は仮面をはずしてテーブルの上に置いて立ち上がる。

「おはようございます」
「おはようございます。すみません、少し遅れました」
「いえ、私のほうが教えていただく身ですから、そんなこと」
「……ありがとうございます。では、早速始めましょうか」
「はい。あ、その前にお願いが」

 の向かいのテーブルに腰掛けたセラは、の言葉に少しだけ首を傾げる。

「お名前を教えて頂きたいなと。このままじゃどう呼べば…お呼びすればいいか分からないので」

 敬語が崩れそうになって、は慌てて訂正する。です・ますならともかく、こうして日常的に敬語を使う環境はやはり非日常なので時々間違えそうになる。アルバイトの経験でもあれば少しは役に立ったのだろうかと今更どうしようもないことも思ってしまう。
 何はともかくセラに名前を教えてもらえれば、今後うっかり名前を呼んでも問題なくなる。知識があるとこういう細かいところで苦労するのだなとほんの少し苦笑してセラを見て、驚く。
 彼女は微かに険しい顔で下を向き、何かを考えているようだった。

「あの……」
「……教えられません」
「え?」
「……………」

 そう言ったきり、セラは口を噤んでしまった。はただ困惑する。失礼なことを言ってしまったのだろうか。怒らせてしまったのだろうか。原因が分からず、悲しくて泣きそうになる。とにかく嫌われたくなかった。誰にも。

「すみません、何かあの、失礼をしてしまったみたいで、その」
「……………」
「他意はないんです。呼び方があると便利かなって。名前以外でもいいんです。ええと…師匠とか先生とか」

 フウ、と彼女が溜息をつくのが分かった。

「……お好きなように呼んでください。名前のことは……悪いとは思っています。ですが、事情があるのです」

 すみません、とセラは小さく頭を下げた。どうやら失礼はしていないらしいと、は安堵する。

「では、師匠と」
「………」
「……それでは、先生は」
「………まだ、そちらの方が」

 先生ですね、と幾分嬉しくなりながらは言う。嫌われたわけではないと分かっただけ良かった。名前に関しては自分が気をつければいいのだ。

「では、今度こそ始めましょうか」
「はい」

 今度はティーセットやお菓子、朝ごはん代わりの軽食も持ってこようかと考えつつ、は椅子に腰掛けた。



 「……心を静かに落ち着けて……そう、風の音を聞き、葉のざわめきに耳を澄ませ、太陽の光を指先に感じてください。あなたの身体を巡っているものを手のひらに集めて……ゆっくりと、形を持たせて……」

 セラの静かな声を全身で感じ取りながら、両手を合わせて蕾のようにする。ほんのりと手のひらが熱くなる。その感覚に少しだけ期待を抱いて、は薄く目を開けた。

「………。難しいですね」
「それは、まあ……。そんなにすぐに出来てしまったら、私達の立場もなくなりますから」

 手の中には何もなかった。期待していた分落胆もそれなりに感じて、は肩を落とす。
 セラに師事してから、3週間あまり。その間が魔力を世界に具現することは一度もない。セラによると魔力を上手くコントロールできれば紋章がなくとも武器になるのだという。 魔力の具現化、そしてそれによる攻撃は、セラの話を聞く限り衝撃波という表現が近い。自らの手を汚さずに離れた相手に傷を負わせる。
 だから武器を持たず紋章も宿していない自分の自衛方法はそれしかないのだが――如何せんそれができない。紋章に関してはナタナエルに言えば何とかなるのではという気持ちもあるが、紋章自体高価なものらしいので気と腰が引けている。

「先生はどれくらいで出来るようになりましたか?」
「……10日、くらいでしょうか」
「…………」
「個人差もありますから。あなたに魔力があるのは確かなのですし……」
「……ありがとうございます」

 剣や棍といった武器を扱うことの出来ないには、これが唯一の武器になるだろう。だから諦めるわけにはいかない。2度目にこの世界に来たときのように、ある程度の力がないと立ち行かない面もある。生きるために自分以外の誰かを何かを、屠らなければならないこともあるだろう。

 屠る――

「………っ!!!」

 一瞬にして湧き上がってきたものに、は両手で顔を覆って耐える。冷や汗が吹き出る。呼吸が乱れる。

!?」

 セラが驚愕の声を上げる。は背を丸めて顔を見せないようにする。困惑する気配が伝わってきたので安心させたいと思ったが、声を出すのも難しかった。
 あやすように優しく背を撫でる手の冷たさを感じながら、少しずつ治まってきた動悸に呼吸を合わせる。

「すみません。ちょっと…なんといいますか、あまり良いものでない記憶を掘り返してしまいました」
「あ、いえ……」
「困らせてしまって、すみません」

 は苦笑する。そして、テーブルの上におかれた小さな時計に目をやった。8時20分。

「もうすぐ仕事が始まります。今日もありがとうございました。出来の悪い生徒で申し訳ないです」
「……大丈夫なのですか?顔色がまだ優れないようですが」
「そのうち戻ります。心配してくださってありがとうございます」
「……あまり無理はしないように」
「はい」

 3週間こうして向き合って、セラの人となりをほんの少しだけ知れたような気がする。は小さく笑んだ。

「では、失礼します。また明日の朝に」

 彼女は心配性である。



 執務室へと向かう途中、は何度か壁に手を突きながら進んだ。自分で思った以上に先程のダメージは大きいらしい。一度思い出すとそれが引き金となり、連鎖的に次々に記憶が蘇ってくる。
 は自分の手を見つめた。年相応に小さな、苦労を知らない綺麗な手だ。しかし傷一つ無い『この身体』の知らないところで、この手は確実に血で染められてきた。

「何で、殺しちゃったんだろうな……」

 あの時はそうすることが一番良いと思っていた。それが最善の道だと信じた。
 それでも、未練が尽きてくれない。――後悔など、したくはないのに。
 信じさせて欲しいのに。あれこそが正しい選択だったのだと。

「正しいものなんて」

 ――本当は、無いかもしれないのに。


 鋭い痛みとともに、一瞬、右手が焼けるように熱くなった。


 その感覚には勢いよく振り向いた。――今のは。
 振り返った先にはただ廊下が続くだけで特に目立った物はない。窓からは穏やかな朝の日差しが差し込み、その向かいの部屋はいつも会議やカンファレンスで使われている馴染みの部屋がある。
 しかし、何故。先程の痛みは。この胸の動悸は。

 強い不安がを襲う。衝動的に、目の前の廊下の先まで走り抜けたいと思った。
 ――何かあるのだろうか。
 この廊下の先に何があるというのか。心臓の辺りが激しくざわめくような気がする。真綿で首を絞められる。今すぐに逃げ出したくて、でも向かって行きたい。相反する二つの感情に気分が悪くなる。
 無意識には二歩三歩と後ろへ下がり、そして軽い衝撃を受けた。どうやら後ろに人がいたらしい。

「すみません」

 人にぶつかったことでうまい具合に気が逸れる。フ、と心が軽くなるのが分かった。仮面に開いた穴越しに相手を見上げ、すんでのところで飛び出しそうになった悲鳴を押し戻す。
 その服にも、髪の色にも見覚えがある。初めて見る人ではあったが、誰なのかすぐに分かった。
 赤い髪に灰白色のコート、怜悧で整った顔の造形はどこか冷徹さと非情さを伺わせる。つり上がり気味の眉に反して、目はそうでもない。

「今後、気をつけることだ」
「はい。申し訳ありません」

 表情を消すペルソナはの個をも覆い隠す。知られたところで身の危険はないはずなのに、自分と知られるのがたまらなく恐ろしい。目の前の人物はどう思うだろうか。外見どころか中身も15年前と同じ自分をどう扱うだろうか。受け入れてくれるだろうか。拒否するだろうか。もしかしたらそれすら思わないかもしれない。
 考えすぎだと思う。しかしそれが一番怖い。目の前の人物があまりに記憶とかけ離れ過ぎていて、別人ではないかとすら思う。つないだ手を離したのは自分なのに、差し出した手を振り払われるのがとても怖かった。

 ――ならば最初から、差し出さなければいい。

「仕事はもう始まっているだろう。ここでのんびりしていていいのか?」
「…あ、はい。行きます。……では」

 ――違う。

「………」

 違う。

「……ア、ルベルト」

 ――私はここにいる。

 存在している。地に足をつけて歩いている。呼吸をしている。世界を見ている。
 気づいて。受け入れて。認めて。知ってほしい。

 その声が届くことはなかった。



 執務室に戻ると、ナタナエルの机には書類の山ができていた。は目を見開く。いまだかつてこれほどに紙が重なった様を見たことはない。倒れないように文鎮は置いてあるが、役に立っているのか正直怪しい。
 目算で30センチものさし2本分くらいはあるな、とやけに冷静な頭で分析した。

「……?どこに行っていたのかしら?」

 地を這うような声が紙束の中から、いや、その向こう側から聞こえてくる。

「ご、ごめん。あの……この状況は一体……」
「……これ全部、明日までに終わらせなきゃいけない書類よ。あと、今ここにあるのはほんの一部だから」
「何でまたこんなことに」
「………グラスランドに侵攻することが正式に決定されたの。その手続きや雑務が一気に来て……」

 机の後ろ側に回り込んだは、珍しく肩を落としたナタナエルを見た。

「おかげでササライ様やディオス様達は朝から飛び回っていらっしゃるわ。それで、残った私たちで書類の整理と確認・照合をすることになったの。人数が少なくなったから一人当たりの負担も倍増」

 言われて執務室を見渡すと、確かに3、4人の補佐官がいるばかりである。普段の半分だ。その誰もが机に紙束を山と積み上げている。

「今日中に終わる?」

 思わず漏らしたの言葉に、ナタナエルは朗らかな笑顔で返した。

「うふふ。の着替えも持ってきたわ」
「あ、泊まりなんだね……」
「照合だけですごく手間がかかりそうなの。資料室は24時間の使用許可を取っているから安心してね」

 う、とこれからの良くない予想に言葉を詰まらせたに、ナタナエルはメモに何か走り書きをして渡した。

「とりあえず、ここに書いた資料を持ってきてくれるかしら。字を読む分には大丈夫だったわよね」
「うん。…戦争になるんだね」

 小声で確かめるように訊くと、ナタナエルは少しだけ驚いて、それから悲しそうに目を伏せた。

「そうね」

 それきり、何も訊けなくなった。



 資料室と執務室を往復し、処理済の書類をナタナエルの付箋に沿って仕分けしてまとめる。合間合間にお茶を入れて――ここで働き出して、紅茶をティーパックでなく葉で淹れられるようになったのは素直に嬉しい――そしてまた不必要な本を抱えて資料室へと戻る。それを繰り返しているうちにいつの間にか午前が終わり、昼食を間食の時間帯に摂り、そして夜が更けていく。等間隔で壁に備え付けられたランプに火を灯して、ナタナエルが紋章で天上から吊るされたシンプルなシャンデリアの蝋燭に明かりをつけた。
 書類は3分の1ほどに減っている。

 先に仮眠に入っていた補佐官が戻り、ナタナエルに声を掛けて仮眠を促す。は新たにやってきた、侵攻計画のレジュメを分けて一部ずつクリップで留めていく。

、私は仮眠室に行くけれど……」
「これが終わったら私も寝ていいかな」
「ええ。仮眠室の場所は知っているかしら」
「会議室に行く途中にある部屋?」
「そう、そこよ。じゃあ、なるべく無理はしないようにね。眠いと集中力もなくなってしまうから」

 そう言ってあくびをかみ殺しつつ執務室を出るナタナエルを見送り、はまたレジュメ作成へと向かう。細かな字で記されたレジュメの内容は、はっきりいって全く分からない。ただ、描かれている図や数字から、なんとなく大規模なのだな、ということだけを読み取った。

 しばらく無心で長机の上のレジュメを分け続け、そして留め続けた。そうして最後の一部を留め終えては深く息を吐く。仕事自体はまだ終わっていないが、何だか全てをやり遂げたような気持ちになる。

「では私も仮眠をとらせていただきます」
「おう。お疲れ」
「お疲れ様です」

 部屋にいた年配の補佐官に声を掛け、も執務室を出た。



 コツ、コツと、廊下にブーツの足音が響く。石造りのこの神殿はそうした音がよく反響する。眠さでフラフラともたつく足を叱咤しながら、壁を支えにして廊下を進んだ。
 そうして仮眠室へと向かっていると、ふと、見覚えのある交差に行き当たった。右に行けば仮眠室、左に行けば――
 は右手を見る。今はなんともない。

 左右の廊下を見る。壁に備え付けられた蝋燭の炎で、暗くはない。もしもこの明かりがなかったらお化け屋敷になっているだろうと思う。とてもじゃないが怖くて歩けない。明かりがあっても少し薄暗いのだから。
 周りを見回す。今この神殿の中にいるのはササライ直属の補佐官と当直の神官だけだと聞いている。その神官もナタナエルが仮眠に入る直前に見回りに来たから、しばらくはこの辺りには来ないだろう。

 危険だろう。そんな予感がする。

(でも)

 行かなければならない。そうも思う。の『右手』が反応した、それはつまり天球の紋章に関わることではないのだろうか。
 はピエロが――天球の紋章の化身が自分にしたことを忘れてはいない。は腹部を貫かれ、水路に落ちた――おそらく助かる可能性は低かった。元の世界に戻る直前の感覚は、確かに死を予感させるものだった。だが、水路に落ちる直前に大勢の人の気配がしたことも覚えている。

 こういう推論は成り立たないだろうか。ピエロは、ああすることでが元の世界に戻れることを知っていた。そしてあの時自分の――宿主の身に何らかの危険が迫っていて、それを避けるために腹部を貫き、を元いた世界に戻したのだ。
 自惚れすぎだろうか。

(とにかく、行ってみないことには何も始まらない。先に進めない)

 は大きく深呼吸をする。不安だ。しかし、進まなければ何も分からない。


 意を決して踏み出した一歩は、少しも響かなかった。








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2008.3.25
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