天球ディスターブ 2-3



「じゃあ、そこの書類を第二会議室に届けてきてくれるかしら」
「はい」

 仮面でくぐもってはいるがはっきりとした肯定の返事を返し、はナタナエルの執務机に溢れた書類群の一束を手に取った。一心不乱に書類の検分と資料との整合性の確認、そして仕分けを繰り返しているナタナエルはに目をくれることなく「お願いね」と言って再び作業に戻る。
 はそれに仮面の裏で苦笑して踵を返した。第二会議室――この詰め所からだとさほど離れてはいないはずだ。確か大会議室の斜め向かいだったな、と記憶を確認しながらドアに手をかける。

「…っと!……なんだ、書類を届けに行くのか」

 開けた瞬間に驚いたような声が聞こえ、それから気を取り直したように声をかけられた。丁度向こうもドアを開けようとしていたらしい。相手の視線に合わせるように上を向いたの目に、幾分光沢を失くした金色が広がる。顔の両脇には立派なモミアゲ、特徴的な大きな鼻に三白眼のその人物はを見るとやや困惑したように視線を泳がせた。――おかめ、苦手なのだろうか。と、そんなことを思いつつは頭を下げる。

「申し訳ありません、ディオス様。驚かせてしまいましたか」
「いや、タイミングが悪かったのはこちらも同じだろう。すまんな。…ああ、書類を届けるんだろう。行ってこい」
「はい。失礼します」

 会釈をしてディオスの傍らを通り過ぎると、その瞬間にポン、と頭に軽い衝撃を受けた。慌てて振り返ったが見たのはパタンと小さな音を立てて閉まった扉のみで、は撫でられた――と思われる自分の頭を触りながら首をかしげた。――どうも自分はあの人に目をかけられているというか、目をつけられているというか、可愛がられているというか。何となく微笑ましいものを見る目で見られている、と思う。

――おかめなのに、何故。

 先日そんな疑問を抱いてすぐ、はナタナエルに尋ねてみた。もしディオスが自分のことを疑っているようであれば長く留まるわけにはいかないだろうと考えたのだ。先の見通しも立っていない現状ではいささか不都合なことではあったが、身の安全の方が大事である。
 しかし、真剣な思いで尋ねたはずのその問いに、ナタナエルはいつもより声を上げて笑ったのだった。

『違うわ。心配しなくて大丈夫よ。ディオス様ね、どうも小さいもの――ああ、ご自分より小さい人ってわけじゃなくて、私やみたいな……まあ、私たちはギリギリかもしれないけれど、そう、子供好きでいらっしゃるの』

 ご本人が自覚していらっしゃるかは別として、とナタナエルは言う。とても真っ直ぐで良い人なのだ、と。

『あなたの声とか仕草とか…良くも悪くも大人になりきれていない部分を見抜かれたのね。
――真っ直ぐ過ぎて損をしてしまうことが多いみたいだから心配だけれど、すごく良い方なのよ』



 無事に第二会議室へと書類を届けた後、はつらつらと先日のナタナエルとの『ディオスを讃える会』を思い返していた。ついでにこの宮殿の、神官将以下の組織を樹系図様に組み立てて整理する。

 ここ、ハルモニア神聖国における頂点は言わずもがな、神官長ヒクサクである。そしてヒクサクの下には神官将がいる。双方の仕事は――はっきりいって現時点では知らない。神官将においては政治をしているのか軍務に就いているのかいまいち良く分からない。もっと言えば、どちらもしているのだからわけが分からない。強いて言えば神官将ササライの行う政務は先だってのナタナエルの視察や15年前のハイランドへの軍隊派遣のようにフィールドワーク的なことが多いようだから、彼の場合はやや軍務寄りの仕事が主、もしかしたら軍事関係を統括する役柄ということになるのかもしれない。
 そして神官将のもと――の場合は神官将ササライのもと――には大きく分けて3つの組織が存在する。

 一つ目は『近衛隊』。簡単に言えば護衛だ。他に神殿近衛隊というのもあり、こちらは各神官将が自分の近衛隊から幾人かを派遣して構成される。自分たちの近衛兵がどれだけ優れているかを誇示する意味も兼ねているのだとナタナエルが苦言を呈していた。そういえば便宜上、神殿近衛隊を総括しているのはササライだというから、やはりササライは神殿内でも軍部に近い人物なのかもしれない。

 次に、『神官将補佐官』。ナタナエルがこれにあたり、彼女は直属の上司になる。その名の通り神官将を補佐する役柄で、その内容は書類整理であったり視察代行であったり使者であったりと様々、よほどの文官タイプでない限り、戦時には一個隊を率いることもあるそうだ。故に文武共にある程度は秀でていないと就くことができない。――成る程、これは確かに上流階級でなければ中々なることのできない役職である。たまに努力して下流から就く者もいるらしいが、ハードルは塔よりも高いらしい。
 また補佐官はナタナエル一人だけではなく何人か存在する。ディオスも補佐官だ。その中でもまた階級付けはあるらしいのだが、生憎とはその辺りのことはよく知らない。とりあえず分かっているのは補佐官の中でもディオスが筆頭の『副官』で、ナタナエルが末席であるということのみである。

 三つ目、『情報収集部門』――いわゆるスパイであり、存在は認識されているものの誰が就いているかは秘密にされている。ナッシュはこれにあたるだろうかとは踏んでいる。分からない部分の多い仕事だ。


 そこまで考えて、は小さくため息を零した。ややこしくはないが、多少面倒くさい。考えたところで、また
組織構造を覚えたところでこの神殿に長くいることはできないのだろうと、薄っすらと理解している。
 時間がないのだ。ルックには明確な目的がある。会うことを決めた以上、おそらくこのまま仕事をしていても全うな方法で会えはしない。リスクの覚悟も多分要る。少しだけ先を知っていることを素直にありがたく思う。
 だから、むしろ何も考えずここでの限られた日々を過ごすほうが精神衛生上は正しいのだろう。

「……そのはずなんだけどなあ」

 気を抜くと錯覚しそうになる。今が大分幸福すぎて、高望みをしそうになる。自分はこのままこの神殿で、良い上司のもとで日々走り回りながら、しかし身の危険のない生活を送れるのではないかと。
 望んでしまうのだ。

「………本当はここが一番危険なのか…あ、いや、今は紋章がないから大丈夫なのかな」

 もう一度息を吐いた。分からないことだらけで不安になる。
 右手を見ても何もない、それを少しさびしく思う。以前には、なくなればいいと思ったこともあったのに、現金なものだと自分でも思う。



 詰め所へと戻るべく近道を通る。中庭を横切って向かいの回廊に行き、そこから少し進んで角を曲がると、小さな花壇とティータイムには相応しいがこの神殿には似合わないテーブルと椅子が備え付けられた庭がある。その庭は回廊以外の三方を壁に囲まれていて、回廊の向かい側の壁にのみ小さな窓がある。その窓は普段は使われず埃をかぶっているカンファレンスルームの窓で、その部屋は詰め所にとても近い。
 人に忘れられたのだろうか、荒れ果てた花壇には野花が咲き、一本だけ生えている木は枝を自由自在に伸ばし続けている。吹き抜けの空は四角く区切られているものの限りなく高く、汚れを知らない雲がまぶしい。

 休憩時間によく訪れる、秘密の場所だ。

「あれ」

 ――今日は、先客がいるようだが。

 立てば芍薬座れば牡丹、というフレーズを思い出した。繊細な造りの椅子に腰掛る姿は作り物めいた完璧さを以って、彼女と自分の間に世界レベルの線を引いているような気がした。少しだけ吹いている風に揺れる薄い金色の髪はどこまでも透き通り、青いドレスが神秘性をより一層高めている。
 心から、美しいと思った。

 どのくらいの間そうしていたのかは分からないが、どうやら見惚れていたらしいことに気がついたのは彼女が席を立ってからだった。こちらを一度だけ見て、眉を顰めるでもなく微笑むでもなく微かに会釈をした後、彼女は――おそらくセラは、庭を去ろうとした。
 そしてが自分の体のコントロールを失くしていたことを知ったのは、セラの手を掴んだあとだった。
 セラは特に驚くことも動揺することもなく、感情の読めない瞳でを見た。

「……なんでしょうか」
「…ええ…と。あの、その」
「用がないのなら、離していただけますか」

 何か話さなければならないと思う。だが、何を話せば良いのか分からない。何故話さなければならないと思うのかも分からない。ただ、この機会を逃したら彼女と会うことはもうないのではないかとだけ思った。
 頭で一通り考えてから言葉を作るのでは遅い。だから、浮かんできた言葉を次々と投げかけることにした。

「ファンです」
「……………は?」
「あ、いや、ファンというか何と言うか、その……魔法とか、すごいなと」
「……魔力のある者が魔法が使えるのは当然だと思いますが」
「そうなんですけど。そうではなくて、私はその…コントロールが全くできないので」

 そう言うと、セラは何かに気づいたように小さく頷いた。

「…ああ、それで……」
「え?」
「……いえ、何でもありません」
「気になります」
「…………」

 食い下がる。彼女はルックに付き従っている。今更だが、現時点では最もルックに近い人物なのだ。このチャンスを逃したらだめだと、半ば自己暗示をかけるように強く念じる。
 そうしてずっと彼女の顔を見続けていると、微かに揺らぐ視線に気がついた。まるで、どこを見たらいいのか考えあぐねているようなその動きの原因に、はそのときやっと気がついた。

「すみません、仮面のまま失礼しました」

 おかめ仮面を取る。その時初めて、セラの顔に変化が現れた。ほんの少しだけ、驚いた表情になった。
 それを見ては少し嬉しくなる。母親に悪戯をする子供のような幼い気持ちだという自覚はあったが構わない。もっとたくさん、彼女の表情を見たいと思った。

「それから名乗りもせず、すみません。下士官のと申します。……それで、あの」
「…………あ、ええ。貴女は魔法を使うのですか?」
「いえ。紋章を宿していませんし、宿していたときもコントロールがほとんどできなくて」
「そうみたいですね」
「?」
「貴女ほどの魔力を持つ人間が紋章を宿さずにいることが不思議だったので」
「……。…ああ」

 の感覚でいけば、紋章を宿していないのは不自然でもなんでもない。なにせ本来の世界には紋章という存在そのものがないのである。しかしこの世界は違う。紋章が存在し、文化に根付いている。彼女の言う『の魔力』というのがどの程度のものかは判別しかねるが――何分自分にどのくらいの魔力があるか量る方法を知らないので――とりあえず紋章を宿していてもおかしくない程度の魔力はあるとみていいだろう。

「魔力あったんですね。てっきり無いのかと」

 今回は、という言葉は飲み込んだ。セラは少しだけ怪訝な表情を見せて言葉をつないだ。新しい表情だな、とはまた嬉しくなる。

「魔力は誰にでもあります。ただ生まれつき、大小や属性、技術の向き不向きはありますが」
「じゃあ私はコントロールが不得手ということなのでしょうか」
「制御に関しては日々の訓練次第で上達するでしょう」
「訓練…ですか?…………。……あの、すみません、やり方が想像できません……」

 そう言うとセラは何かを思案するように手を軽く顎のあたりに持っていき、を見てから目を伏せた。
 少しして顔を上げると、再びを真っ直ぐに見つめる。

「貴女は誰かに教わっているわけではないのですね」
「はい」
「では、私が教えましょう。そうですね……明日から、朝、仕事が始まる前にここに来てください」
「はい。……はい?え、あの」
「不満ですか?」
「いいえ!そんなことありません!むしろ願ったり……ああ、いや、そうではなくて」

 何が起こったのか、理解が追いつかずには困ったように眉を下げる。

「その、こう言うと卑屈に聞こえるのは分かっているんですけど。私に教える価値があるのか……」

 先ほどまでの会話の流れで、セラが何故自分に教える気になったのか、には理解ができない。何か斬新な考えやアイディアを出して彼女の気を引くなんてことをした覚えはなかったし、彼女の注意をひく要素が何も思い浮かばない。

「それに仕事が始まる前っていったら、結構早い時間ですよね。それでもし貴女が体調を崩されたりしたら」

 申し訳ないです、とだんだん小さくなっていく声を情けなく思いながらは言い切った。
 彼女自身、ルックの補佐で今は忙しい立場のはずだ。自らの魔力を資本とする彼女にとって時間があるのなら身体を休めたいのが心情ではないだろうか。だとすればを指導することは彼女にとって負担以外の何者でもない。それは――決して気持ちのいいものではない。

 セラが教えてくれるという、そのこと自体は願ってもないことだ。ルックに近づく上でこの上なく都合がいい。しかし、誰かに迷惑をかけてまで自分の意思を通したくはなかった。
 恐る恐るセラを見ると、は自分の顔が驚きに強張るのを自覚した。
 驚いているような、困惑しているような、自分でも理解ができないといった表情のセラがそこにいた。

「だ、大丈夫ですか?」
「……え。あ、ええ。……あ、その、貴女に教えることですが……」
「あ、はい」
「…………おそらく、貴女の魔力の大きさに興味を持ったから、だと……思います」
「……動揺していらっしゃいますか?」
「………少し」

 そう言って口元を手で覆い隠す。もしかしたら自分でも指導する理由がよく分かっていなかったりするのだろうかと予測する反面、そんなことがあるのだろうかという疑問も浮かんでくる。
 とにかく、何だか最後の最後でものすごいものを見てしまったような気がする。未だ困惑しているらしい彼女にこれ以上何を言うこともできず、も一緒になって困る。
 そして、あ、と、小さく声を漏らす。まだ礼を言っていなかった。

「あの」
「何ですか?」

 嬉しいことに変わりはない。できるだけ感謝の気持ちが伝わるように、今できる一番の笑顔になりたい。

「ありがとうございます」

 残念ながらの目は前しか見えないので、自分がどんな表情をしているのか知ることはできない。ただ、セラが困ったように少しだけ、本当に少しだけだが微笑んでくれたので、それだけでもう十分だった。



 書類を届けたことを報告しなくてはならないことに気づいたのはその直後だ。それから、今は別に休み時間でも何でもないのだということも思い出しては一瞬血の気が引いたのを確かに感じる。セラがいる手前近道をするのも何だか憚られ、は戻らなければならない旨を伝えると仮面を付け直し、その場を後にした。
 ナタナエルのいる補佐官執務室に向かう途中に、セラに名前を聞いていないことを思い出すもすでに後の祭りである。どうやら明日の朝、セラに会うまでは彼女の名前をついうっかり言ってしまうということがないように細心の注意を払わなければならないらしい。本来ならば、が違う世界から来たのでなければ、彼女の名前を知っているということはあってはならないことだからだ。

「ただいま戻りました。……!?」

 執務室の扉を開けると、途端にバン、と何かを強く叩きつけたような音が聞こえ、次いでナタナエルの怒声が聞こえてきた。仕事が溜まっている時などは確かにナタナエルでも声を荒げることはあったが、今、聞こえている声はそれとは比較にならないほど怒りに満ちている。

「いい加減にして頂戴……!!」

 聞こえてきた声に慌てて扉を閉めると、ナタナエルを見る。末席ということで扉に近い執務机を与えられている彼女は容易く見つけることができる。思わず執務室全体を見渡すと、出払っているのか、部屋にいるの補佐官はナタナエルだけのようで、は何となく安堵する。先程の音は彼女が執務机を叩いた音らしい。そしてナタナエルの視線の先を辿り、怒りの矛先を向けられている人物を視認する。見覚えのない男だった。
 真っ白な生地に所々銀色の細いラインが入っているだけの簡素な模様の服である。ただ生地が分厚いのか、シンプルなのにやけに重装備に見えるのが不思議だ。とても色素の薄い茶髪をしているから、一等市民でないことは確かである。に背を向けているので顔は見えない。

「あなたが何を言っているのか全く分かりません。私はそんなこと、聞いたこともありませんし、また、関わった覚えもありません。――お引取り下さい。これ以上話すことはありません」

 怒りを抑えながら紡がれた言葉に反応して男が笑ったのが伝わってきた。

「分かりました。どなたか戻ってこられたようですし、この場は引きましょう。――ですが、お忘れなく。『私達』には貴女が必要で、また、貴女も『私達』必要とする以上、いずれは戻ってきていただきますよ」

 その声が思ったよりも嗄れていて、振り返った顔には男が初老くらいであることを知る。
 見たことのない服装――どちらかというと、「制服」といったイメージだろうか――に、ナタナエルに対する物言いは対等か、それ以上。ある程度地位を持つ人物なのか、それともただ単にそういう性格なのか。静かに歩く初老の男性に道をあけて頭を下げながら、はそんなことを思う。

 パタン、と扉の閉まる音を聞いてから顔を上げ、ナタナエルの元へと急ぐ。

「ナタナエル、今のは」
「……随分遅かったのね」
「え?あ、うん…ごめん。寄り道をしてしまって」

 戻ってくる途中に考えていた言い訳も、先ほどの光景で忘れてしまった。は正直に言う。
 疲れたように一度息を吐いて、ナタナエルは椅子の背もたれに全体重を預けた。後ろに倒れそうになっては慌てて椅子を支える。

「聞かないほうがいいかな」
「そうしてくれるとありがたいわ。……といっても私にも何のことだかさっぱりだから、聞かれても何も答えられないのだけれど。……本当に何だったのかしら」
「知り合いじゃないの?」
「全然!知らないわ、あんな人。見たことのない制服だったけれど、一体どこの機関かしら」
「へえ」
「ああもう、腹の立つ!いきなり押しかけて訳の分からないことばかり言ってきて!……、今日のお昼は神殿の外で食べましょう。美味しいシーフードのお店があるの」
「了解」

 温厚なナタナエルがここまで憤っているところを見ると、先程の男性はよほど独りよがりな演説をしたらしい。いつもなら他の下士官に用意してもらう昼食――はクリスタルバレーの地理を知らないので買いに行くことができない――も、今日は気晴らしの道具にしたいらしい。

 これはおとなしく付いていって愚痴の聞き役に徹したほうが良さそうだと苦笑する。
 しかしいつもよりグレードアップするらしい昼食にほんの少し期待を抱きながら、は扉横の共有クローゼットからナタナエルのコートを取り出した。








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2008.2.23
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