ピピピ、と目覚まし時計の音が響く。眠りを強制的に覚ますそれに眉を顰めて、私は目を開いた。白い天井と見慣れた空間が視界いっぱいに広がる。毎日見ているはずなのに、何故だか今日はそれがやけに珍しく感じられて、時計を止めるのも忘れてしばらくベッドの上で身動き一つ取らず眺めていた。
 両手を真上に掲げ、そのまま顔面へと振り下ろす。

――ぽす。

 力が入らず、ただ降ろされただけの手は体の構造の関係から、顔の真横に落ちた。腕を上げて降ろす、ただそれだけの動作なのにやたらと体力を使った。微かに息切れしたようで呼吸が荒くなる。

 そこでようやく鳴り続ける時計の音が再び耳に入ってきて、仰向けの体をねじり枕もとのナイトテーブルへと腕を伸ばした。カシャン、とスイッチを押せば騒音が嘘のように止む。時間を見れば――6時半。朝課外の時間を考えれば、少し余裕を持って起きることが出来たようだと安心する。

(……あれ)

 微かな違和感を感じる。朝――課外?私は中学生ではなかったか――いや、高校生のはずだ。今年で18歳。受験も卒業も控えた身である。運動会の練習を横目に自習室で赤本とにらみ合う、ごく普通の受験生だ。間違いない。……何故、「中学生だ」と思ったのだろうか。

(……何か忘れている?)

 そう考えて、すぐに不自然さに気付く。忘れる、ということは私が「最近中学生になったことがある」ということである。――確かに3年前は中学生だったが。最近というほど近い話でもない。

(まあ、いいか)

 考えても分からないならば下手に考えない方がいい。そう結論付けて、テーブルに用意してある下着に手を伸ばした。パジャマを脱いでそれらを身につけ、クローゼットから白シャツと規定のプリーツスカートを取り出す。襟に細い紺のリボンを結び、鞄を持って部屋を出た。



 しかしながら、まあいいか、で結論付けた私の能天気さ加減は、今回悪い方向に働いたらしい。クーラーの効いた自習室で、人が少ないのをいいことに長机を一つまるごと占拠し、参考書やらプリントやらを机の下でなく上に堂々と置いた私は、赤本を目の前に頭を抱えていた。

(何で解けないの!?)

 どうしたことだろう。既に復習を終えたはずの範囲でさえ、解法があやふやなのである。分からないのではなく、「思い出せない」。初めて解く傾向の問題でもないのにこれは異常だ。一番早い入試はいつだった?スケジュール帳を取り出して確認する。11月に防衛大の入試があった。今は――8月末。防衛大は3科目なので、それだけに絞り込んで復習・対策を行えば何とか間に合うかもしれないが――。

「……止めとこう」

 私の志望校はそこではない。勿論多少ウエイトを偏らせはするが、防衛大入試を模試感覚と見ているこの高校の風潮の中では、私一人の合否などあまり意味がないだろう。そう思うと少し気が楽になった。逃げである。
 それにしても、一晩でこんなに学力は落ちるものなのだろうか。昨日の勉強は普段どおりだったはずだ。思い切り適当にしたわけでも、寝ながら勉強したわけでもない。正直、ショックだ。

 落ち込んできたので気分転換をしようと、机の上はそのままに食堂に行く。自動販売機で抹茶ミルクを買って窓際の場所に座れば少しだけ開いたまどから熱気の篭った風が入ってきた。冷房が入っているのに、誰が開けたのだろう。閉めようと手を伸ばして、ふと、止まった。何となく懐かしかった。理由は分からない。

っ!」

 窓の外に視線をやって呆けていると、明るい声がかかった。向かいの席に目をやれば、いつの間に座ったのか、夏休みの前期課外以来会っていなかった友人がニコニコと笑っていた。つられて私も笑う。

「久しぶりだね」
「そうねー。どう?元気だった?あ、彼氏できた?」
「できてないよ。うん、元気だった。そっちは?」
「ウフフ。彼氏と海に行ってきた!」

 そう言って幸せそうに笑う友人に、少しだけイタズラ心が刺激される。意地悪く言ってみた。

「いいの?受験生なのに」
「だからでしょー。これが今年最後の旅行よ。これからデートも完全に止めるわ」
「……そっか」

 ふざけている風でも真剣でもない、ただ平坦とした友人の言葉に返事に詰まる。こういうとき励ましあえばいいのか否定すればいいのか肯定すればいいのか、瞬時に判断することが出来ず結局流した。

「でも、お土産持ってきたわよ」
「お土産?」

 ほら、と差し出された手の下に、両手を受け皿のようにして置く。握られた手が開いて、ポト、と何かが落とされた。見ればそれは真っ白な巻貝で、海に行ったときに拾ったのだろうとすぐに分かった。

「まきがい」
「そーよ。綺麗でしょ?あんたこういうの好きかなって思ったから」

 まきがい。もう一度繰り返す。何か変な記憶が蘇りそうな気がした。

「まき………がみ………」

――あなたに、プレゼントを贈るわ

?」

 友人の声に、ハッと意識を取り戻す。一瞬だけ白昼夢を見たように思う。何だったのかさっぱりだけれど。ありがとう、と礼を言うと、友人は笑って手を振った。そして、予備校の時間だからと席を立つ。私もそろそろ勉強に戻らなければならない。残っていた抹茶ミルクを飲み干し、窓を閉めて食堂を後にする。

――ごめんなさいね

「……っ」

 誰かの言葉。でも誰なのか分からない。顔も、名前も分からない。けれど見覚えがあると強く感じる。これは記憶なのだろうか。私の妄想ではないのか。ドラマや小説のセリフを、勝手に美しい記憶にでもしてしまっているのではないのか。
 でもそれならば何故、見覚えがあるのだろう。私は確かにこの言葉を聞いたのだと、頭のどこかが叫ぶ。
 どうして、少しだけ悲しいような、イライラするような、そんな変な感情が湧いてくるのだろう。

 仮にこれを『私が忘れてしまった記憶』とするならば、『私』は、それを忘れたくなかったということだろうか。

――幸せに、なれますように



 どうやら空白が出来ているらしい記憶は――妄想と断定したかったのだが、あまりにデジャヴを感じるものばかりだったので記憶ということにした――それからも度々現れては私に混乱をもたらした。

――怪我はない?
――あなたが――なのね
――あの子のことが好きなの?……ふふ、素直な子は好きよ。……隠しても無駄?そうかもしれないわね
――エア・トレックが嫌い?傷つけてばっかりだから?……そうね、どこで間違ってしまったのかしら
――停めて欲しいのよ、この大撥条(だいぜんまい)を。そのために理論を盗んだの。あなたをよんだのよ

――さようなら。力のないあなたに用はないわ
――どこか平和な場所で、どうか、幸せに

 断片的に漏れる情報を拾ってつなぎ合わせてみようとしても、関連付けようとすればするほどその大きさに戸惑うばかりでまとまらない。私は何を経験したというのだろう。そもそも本当に経験したのだろうか。
 記憶、と判断しているが、振り返る限り、私の今までの人生に途切れた部分は見当たらない。むしろ「架空の記憶」が文章に無理矢理加えた文字のように浮いている。整合性がない。
 しかしただの白昼夢や想像だと判断できないくらいに、浮かび上がる欠片は多すぎた。さすがにこれは私の想像力だけでは覆いきれないだろう。キャパシティを超えている。

 想像ではない。ならばやはり記憶か。しかしいつの記憶だ?流れに途切れは見当たらない。

 けれど、初めは声しかなかったのに、やがて人物と陽炎のかかった背景が追加されるようになった。そして一つだけはっきりしていることがある。記憶には常に二人の人物が登場する。
 夜会巻きのような髪型の白衣の女性と、眼帯を付けた男の子。見れば懐かしくて、寂しい気持ちになる。
 誰かはやはり分からない。けれど感じる気持ちから、何かこの一連のものの鍵であるように思う。 

 私はこの記憶を、思い出したいと考え始めていた。

 そうは言っても受験生、度重なる記憶のフラッシュバックに正直うんざりもする。勉強中にそれが起こったときなど尚更だ。やめてほしいと思うが、自己中心的なその記憶は私の都合などおかまいなしにやってくる。
 声がある女性と違って少年には声がない。今もパクパクと口を動かして何か言っている。
 そんなときはぎゅっと目を瞑り耳を塞いでやり過ごすのだ。


――『これ、お前が持ってろ』




 制服を着て過ごす日々に減っていった数少ない洋服、お気に入りの本、頑張って選んだ一揃いの食器、おばあちゃん手作りの小物入れに、お父さんが買ってくれた少し高めのネックレス。フライパンと鍋。料理本。

、ちゃんと片付けなさいよ」
「はーい」

 真新しい、でも狭い部屋には収納が驚くほど少ない。それにあわせて私の荷物も少なくなり、整頓も難しくなる。しかし負けてなるものか。今こそ片付けの鬼と呼ばれた私の実力を発揮するときだ。……いや、呼ばれたことはない。所詮自称。いいのだ、気分が盛り上がれば。

 結局第一志望に落ちた私は、第二志望……というか、私の中で第1.5志望くらいの位置づけだった私立大学に行くことになった。しかし県外のため、こうして学生会館で一人暮らしをすることになったのである。

「あら、またあなたは余計なものを持ち込んで……小物は増える一方なんだからやめなさいって言ったのに」
「え?でもそんなに持ってきたつもりはないんだけど」

 見に覚えのない批判に驚いて母の手元を覗き込むと、白い巻貝がそこにあった。

「それって……」

 受け取り、まじまじと眺める。夏休み最後の日に、海に行ったという友人がくれたものに違いなかった。「近くのスーパーで当面の食材買ってきてあげるから片付けておきなさいね」と母が言い残して部屋を出た。何となく巻貝から目が離せなくて、その場に座り込んで眺め続ける。

「あれ?」

 潮騒の音が聞けるかな、と耳に貝を当てようとして異音に気付く。振れば、カラカラと音が鳴った。何かが入っているようだ。気になって、数回振って「中のもの」を手の上に落とす。

「………ボルト?」

 出てきたのは小さなボルトだった。随分汚れている。掃除用にと放置されていた雑巾で拭くと、鈍い光沢ではあったが少しはマシに――

「………っ!!!」


――大家の野山野です!これからよろしくお願いしますね
――ねえねえ!ちゃんって呼んでいい?私、安達絵美理!絵美理って呼んで!
――『ベスパ』って子、知らない?

――アンタがびびってばっかりだから、守れるものも守れないんでしょ!?
――『ベスパ』なあ……はっきり言って、邪魔以外の何者でもないんやけどな
――何のためにここにいるんだ?何を成すために立つ?曖昧な優しさこそ最も鋭いナイフだと知らないのか

――エア・トレックは翼、技術は刃物、そしてトリックは殺し方。レガリアは破壊衝動と同義語だ
――エア・トレックは空への恋心、技術は振り向かせる努力、トリックは愛の告白よ。レガリアは勝負服ね

――魅せてやるよ、とびきりの地獄を
――僕は、傷つくのも傷つけるのも苦手。でも……好きな人達が傷つくのは、もっと嫌なんだ
――見たくないなら目、瞑っとけ。音が嫌なら耳栓貸してやる。ここまで来たんだ、気が済むまでいてやるよ
――行こうぜ。どのみち未来(さき)に別れしか無いんだったら、最後まで一緒にいるほうがよっぽどマシだ

――生まれたときから恋してる。


 世界が急速にぼやけていく。信じることが出来ず、ただ呆然と座り込んでいた。ボルトが濡れていく。
 何故、忘れてしまったんだろう。

 震える喉に開く口に力を入れて結ぶと、急いで立ち上がって窓を開け、ベランダに出て空を見上げた。昼前の空は、まだ少し傾いでいる太陽のおかげか、驚くほど真っ青だった。雲もほとんど見当たらない。
 ああ同じなんだ、と小さく呟いて、ボルトを強く握りしめた。

――胎内から、分娩室から、病院から、外の世界に出て「空」と出合った瞬間、僕らは皆恋に落ちる。
――絶対に手に入らないから、手に入れたくて、独り占めしたくて、他の誰かに嫉妬していくんだよ。

 そして嫉妬に狂った挙句があの騒動か、とベランダの手すりにもたれながら思い出していく。あの時は相関がとても複雑に見えていたのに、こうして遠く離れた場所で他人事のように考えれば、驚くほど単純だ。
 ただ好きだった。だから欲しかった。それだけのことではないか。それだけのことに私はわざわざ違う世界から――この世界から向こう側へと渡り、恋をして、大して役に立つこともないまま、はっきりと恋心を伝えることもないままここに還ってきたのだ。

「……巻上センセー。どうせ呼ぶなら、今度はもう少し役に立ちそうな人を呼んでください」

 聞こえないことを承知で言う。しかし私が目にした一連の大騒動は一応終結しているから、今後誰かが呼ばれることは無いと思う。というよりそうであってほしい。あれは二度三度と起こっていいものではない。

「というか、思い出すのが先生と咢だけってどういうことだろう……」

 先生はともかくもう一人の方は生殺しじゃないか、とため息をついて脱力した。大学で彼氏作れそうにないな、寧ろこの先結婚できるだろうか、と学生会館前公園のカップル達を眺めながら考える。
 手の中のボルトはいつだったか咢がくれたものだが、本人がいない以上持っていても未練が募るだけだ。この先いずれ手放すときがくるだろう。ならば今、この場で放り投げた方が良いのではないだろうか。

「………」

 一度部屋に戻って巻貝を持ち、ボルトと一緒に握った手を一度緩めて、再び力を込める。

「……じゃあね」

 短い別れの言葉を告げ、できるだけ空に近づけるよう、高く高く放り投げた――



――あなたに、プレゼントを贈るわ



 ボルトに太陽の光が反射して目を焼いた瞬間、ホイールが壁を削る音が耳を貫いた。
 空を見上げる私の視界に黒い影が飛び出し、陽光を受けてきらめく未練をその手に掴み取る。まるでスローモーションがかかった映像のようにゆっくりと落ちていくその人物の唇の動きを、私の目が捉えた。

「――投げんじゃねーよ、ファック」

 遅れて聞こえた音声に目が大きく見開いていくのを感じる。静かにベランダから後ずさり、弾かれたように部屋を飛び出した。

 エレベータを待つのも億劫で、5階から階段で息切れしながら駆け下りた私を、フロントの管理人さんが驚きながら見送る。途中すれ違った他の住居者たちも驚いていたがそんなことに構っている余裕はない。
 玄関から外に出て、私の部屋のベランダ側――すなわち建物の裏側に回るため道路に出る。勢いが付きすぎて曲がるときに滑ってこけたが気にしない。すりむいて痛いけれど気にしない。道程が酷く長い。急げと思うほどに足は重く、空気は抵抗を増していく。
 どうにかたどり着いた裏側、駐車場の真ん中に二人は立っていた。
 方や真っ赤なミニのスーツに白衣、そして黒い鞄を持った女性、方や眼帯を付けた小さなつり目の少年。

「お久しぶり。元気だったかしら」
「……ったく、人が折角やったもんを簡単に捨てようとしやがって……」

 微塵も驚きや戸惑いを見せずにそう言ってのける二人に、呼吸が整わず搾り出すような声で問いかけた。

「な、んで……?どうして、ここに」
「あら。言ったでしょう?『プレゼントを贈る』って」
「聞きましたけど……プレゼント、っていったって……」

 巻上先生はにっこりと微笑み、鞄から分厚い書類の束を取り出した。次いでライターを手に持つと、一瞬だけ寂しそうな目をしてから書類に火をつけた。

「ちょっ……!先生!?」
「これで私はあなた以外の誰を呼ぶこともないし、誰かが呼ばれることもないわ」
「でもその研究は先生のお父さんが……!」
「だからよ。父の後始末は子供がするしかないの。2回、使っちゃったけどね」

 そう言って悪戯をした後の子供のような目でウインクをする先生に私は閉口し、少しだけ冷えた頭は周囲の異音を認識し始めた。明らかに先ほどまでは聞こえていなかった音が聞こえる。

「エア・トレックの音……?」

 答えを求めて問いかけた質問に先生は答えることなく、ただ「あなたはあなたのままよ」と言った。

「あなたはもう『ベスパ』じゃないわ。体力も身体能力も変わらない、ただの女の子」
「え……」
「これからは――」

 続けようとした先生の言葉を、今まで黙っていた咢が遮った。

「話が長いんだよファック!!!あーもう、後で説明すりゃいいだろうが!」
「……ふふ、そうね。時間はたっぷりあるんだし、ここは若い人たちに任せましょうか」

 先生はそう笑うと駐車場に停めていた赤いスポーツカーに乗り込み、「2,3時間後に戻ってくるわ」と言って去っていった。残された私は不機嫌な咢の横で冷や汗を垂らすしかない。

「……」
「………咢?」
「……なんだよ」
「………背、縮ん……いや、ごめんなんでもない」
「殆ど言ってから訂正すんじゃねーよ……!お前が伸びたんだろうが!」
「え?……そっか。年の差、開いちゃったんだね」

 半ば諦めにも似た複雑な感情で咢を見る。
 何故ここにいるのか、どうしてこの世界に突然エア・トレックが現れたのか、聞きたいことはいくらでもある。けれどおそらく、それはいずれ分かることだ。巻上先生が全て知っているのだろうから。

 だから多分、今私がするべきなのは尋ねることではない。そんなことじゃない。

「咢」
「あ?」
「悪いんだけど、ボルト、もう一回くれないかな」

 そう言うと咢はこれ見よがしに溜息をつき、「今度捨てたらもう二度とやらねえ」と言ってボルトを握っているらしい手を差し出した。ははは、と苦笑しながら私は手を彼のそれの下に置く。

 ポト、と軽く小さな音を立てて掌に受けたそれが愛おしい。
 彼の優しさと不器用さと、自惚れていいのならばほんの少し、彼自身も気付いているのか曖昧な、友愛とも愛情とも言えぬ感情を一身に受けた小さな機械は、微かに温かい。

「あぎと」

 ゆっくりと、名を紡ぐ。少しだけ怖くて、声が震えた。

「ずっと伝えたかったことがあるんだ」
「何だ?」


「――――――」


 過去の後悔と未来への希望、拒絶の恐怖、そして受容の期待を込めた言葉は、音だけに収まらなかった。
 やや拍を置いて頬を真っ赤に染めた咢の姿が揺らごうとしている。


 全てを記憶に焼き付けたくて、私は乱暴に目元を拭うと、喉に力を入れた。




fin.
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2008.6.14
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