8.






「戦るって、何を」

「決まってんだろ。バトルだよ、バトル。エア・トレックの」

「あ、無理。壁登りしかできないから」

「はあ?」

「しかも登るだけ登って、あとは落ちるだけという」

「それ壁登りって言わねえよ。つーか、ウォールライドって言えよ、ダサいから」


咢は深い深い溜息をついた。








エア・トレックを取り戻したところで、家に戻る。男は警察に届けた。


「そういや、咢は夕食すんでる?」

「あ?ああ、とっくに。俺がっていうか亜紀人が、だけどな」

「じゃあ帰ってからは朝ごはんの仕込みだけでいいか。パン派?ご飯派?」

「どっちも」


ノロノロとエア・トレックを走らせながら会話をする。

語尾に毎回「ファック」が付いてきたらどう反応しようかと考えていたのだけれど、意外に普通だった。

離れに戻り、散乱した洋服を片付けて、無洗米と水を炊飯器に入れてタイマーをセットする。

問題はこれからだ。


「どうやって寝ようかな…」


部屋にはベッド代わりのマイクロビーズクッションしかない。

どちらかが畳で寝るしかないのだけれど、この場合畳は私だろう。


「ねえ、ちゃん」

「亜紀人くんに戻ったんだ。なに?」

「どうやって寝るの?」

「ああ、私畳で寝るから、亜紀人くんはマイクロビーズ使って。エアコン入れとけば寒くないし」


湿度の調整も出来るエアコンだ。

亜紀人くんは困った顔をしてマイクロビーズクッションを見、暫く考えたあと笑顔で振り向いた。


「一緒に寝ようよ!」

「……え?」


ポスン、とマイクロビーズに埋もれながら、亜紀人くんは言う。


「大丈夫!二人くらい寝れるよ」

「狭くなると思うんだけど」

「いいよ。寝よう寝よう」


言葉の後ろにハートマークが見えるような錯覚に陥る。

だが、亜紀人くんはいわばお客様なのだ。ぞんざいに扱うことは出来ない。

そう思って迷っていると、亜紀人くんが頬を膨らませた。


ちゃんが一緒に寝ないと僕、床で寝るもん」

「え!?いや、それはダメだよ!」

「じゃあ一緒に寝よ?」

「う……」


負けた。

私はマイクロビーズクッションと羽毛布団の間に入り込む。左側に亜紀人くんがいる。


「へへー」


そんな嬉しそうな顔で笑わないで下さい。何かの理性が飛ぶから。

心中で涙をながしつつ、私は寝る体勢に入った。


ちゃん」

「なに?」

「おやすみっ」


そう言うと亜紀人くんは布団の中にもぐりこむ。

それが何だか微笑ましくて、私は笑った。


「おやすみ」


明日の朝は何を作ろうか。









ピピピ、と鳴る携帯のアラームの音に目を覚ます。

ムクリと起き上がって、ガラステーブルの上の携帯を見る。

日がまだ昇っていない。冬の朝は遅い。

だが、朝食を作らなければ。

隣に目をやる。


――誰もいない。


「…あれ?」





とりあえずズボンとTシャツに着替えて、味噌汁をつくって鮭を焼き、玉子焼きを焼いた。

人間、やればできるもんだ。

玄関に彼らのエア・トレックがないことを確認して外に出る。鍵はちゃんとかけた。

「彼ら」はどこに行ったのだろうか。



サンダルで近くを捜す。道路にも出てみた。だが、いない。

そのうち帰ってくるだろうかと踵を返して戻ろうとする。

ふと空を見上げると、離れの屋根に誰かが立っているのが見えた。

亜紀人、いや、左目に眼帯があるから咢だ。


「咢」


呼びかける。

咢はそれに気付き、上に向けていた視線を下に移した。

途端、


「………っ!」


下から見上げても分かるほどに赤くなる。

どうしたのだろうか。


「朝ごはんできたから呼びにきたんだけど。どうしたの?」

「…どうもしてねえよ!ファック!」


そう言うけれど、依然として顔は赤いままだ。

風邪だろうか。いや、昨日はちゃんと髪を乾かしたはずだ。

それとも何か恥ずかしいことがあったのだろうか。あの咢ですら顔を赤らめるほどの。――もしかして。


「あー…、もしかして、一緒に寝たこと?」

「……!」


おそらく、寝ている間に眼帯がずれたのだろう。そして、起きた咢は自分のおかれている状況に赤面した、と。

年相応の姿に、思わず笑みがこぼれる。

実際の私は高校生の年齢なのだ、年下の子のそんな姿が微笑ましくないわけがない。

咢は屋根の上から飛び降りて、私の目の前に降り立った。


「…何笑ってんだよ」

「いや、微笑ましいな、と」

「……ファック」

「あはは。朝ごはん食べる?」

「………食う」





小さなガラステーブルにご飯を置けるのだろうかと思ったが、何とか置くことが出来た。

だが、これでは夕食の時にはテーブルから溢れてしまうだろう。

私は部屋に備え付けてある押入れを見る。

ふすまが古きよき時代を思い出させてくれる押入れだ。何も入っていないけれど。


「ええと、じゃあ今日はテーブル買って、布団買って、あとは洋服かな」

「何の話だよ」

「いや、いるものを買いに行かないと」

「?」

「一週間同じ服で過ごすのは嫌でしょ?女物でよければ貸してもいいけど」

「ファック!」

「言うと思ったよ。で、布団は…今日も一緒に寝る?」


咢はまた赤くなる。さっきより赤くはないけれど。

赤いままで私を睨みつけてくるので、慌ててフォローすることにした。


「だから、布団も買いに行こう。あと何かいるものはある?」

「学校はどうすんだよ。平日だろ、今日」

「もちろんサボる」

「…そんな適当でいいのかよ」

「優秀ですから」


中学校においては、だけれど。何せ中身は高校生だし。

食べ終わり食器を洗っていると、咢が後ろから声をかけてきた。


「『猿でもできるエア・トレック』…ねえ。おまえ初心者なのか?」

「…できれば名前で呼ばれたいかも。うん、初心者だよ。だから壁登りしかできない」

「ウォールライド」

「そうそれ。ていうか呼び方はどうでもよくない?」

「ダサい」

「…そうですか」


洗い終わって、タオルで手を拭く。

時計を見ると、10時を回っている。サボり決定だ。

私はダンボール棚の上においてある財布を手にとって、ズボンのポケットに入れた。


「出かけようか」

「ああ」


上着を手に取りエア・トレックを履いて外に出て、鍵をかける。鍵も新しくつけてもらったほうがいいだろうか。

だが面倒くさい気がするので止めておく。

私達はエア・トレックを走らせて街に向かった。









大型デパートの服のフロアに来る。


「私はここで待ってるから、選んだら持ってきて」

「分かった」


おそらくこれから、亜紀人くんと咢の服選び合戦が行われるのだろう。

二人の趣味が似ているのならいいけれど、似ていなかった場合は言い争いでもしそうだ。

その光景を思い浮かべて私は少し笑み、近くのベンチに座った。





暫くして少し疲れたような様子の咢が手に服を持ってやってきた。

私は苦笑しながら服を受け取り、会計を済ませる。

同じデパート内の家具売り場に行って適当な布団を買い、宅配を頼む。

そのあと適当に店に入って昼食をすませ、帰る途中で見つけた公園に寄ることにした。

途中でアンケートを頼まれた時、姉と弟かと聞かれた。


「弟か…」

「うるせえ!何で弟に見られなきゃいけないんだよ!」

「身長の問題だと思う」

「…くそ」

「でも、あんまり変わらないと思うんだけどなあ」


エア・トレックを履いた私と咢の身長差は、3センチあるかないかだ。

だが咢にはそれすらも許せないらしく、さっきからずっとご機嫌斜めなのだ。

そこら辺のベンチに座り、感慨もなく空を見上げる。


「高いな」

「あ?」

「いや、空がさ。夏の空は広いと思うんだけど、冬の空は高い気がするんだよね」


咢も空を見上げる。

男女が揃って空を見上げている光景はさぞかし変だろう。

喋るたびに吐き出される白い息が空に溶け込むように消えていく。


「………くだらねえ」


空を見上げ、少しだけ複雑そうな表情を見せて、咢は目線を正面に戻した。

私は空を見上げる。

近くの木の枯れ枝の茶色と、少しくすんだ青色は妙にマッチして見えた。


「…?」


そこに突如、別の色が入り込んだ。――赤い風船だ。

枯れ枝のほうに近づいていく。割れるだろうと思っていたら、うまい具合に枝の間に入り込んだ。

子供の泣き声がしたので、視線を泣き声がする方に遣る。

小さい女の子が風船を指差し、逆の手で母親の手を引いて泣いていた。風船はあの子のものなのだろう。


「…うるせえ」


隣で咢がぼやいた。

私は今日何度目かの苦笑を漏らし、立ち上がって風船の真下にいく。

そこから一歩下がって、タン、と思い切り地面を蹴った。

風船のある枯れ枝の高さをなんなく越えてその枝の上に立ち、風船をそっと外して降りる。

本当に、身軽さまさまだ。


「どうぞ」

「…ふえ…?あたしのふうせん…?」

「あらあら、どうもありがとう」


女の子のお母さんが微笑んでお辞儀をする。つられて私もお辞儀をした。


「ほら、あなたも」

「ありがとう、おねえちゃん!」

「いえいえ」


何度も振り向いてお辞儀をする母親と手を振り続ける少女。

とても微笑ましく、同時に懐かしかった。


「つくづく」


咢が私の横に立つ。


「身体能力は人間離れしてんのな」

「まあね。役に立ってるから私としては重宝してるんだけど」


親子の姿が見えなくなるまで手を振って、それから下ろした。


「一つ聞く」

「答えられることなら」

「おまえ…はウォールライドはとりあえず出来るんだな?」

「落ちるけどね」


言い直してくれるのは気遣いなのだろうか。


「初歩のトリックといっても、それなりに練習はしなきゃならない。だが、チームがなければエリアもない」

「そうだね」

「…一体どこで練習してるんだ?」


私の顔から笑みが消えるのが分かった。

少しだけ前に進んで、咢を振り返る。

咢の表情も、私の表情も、多分真剣だ。

一瞬の間をおいて、私は答えた。


「ベヒーモス」

「……」

「間借りしてるよ」

「…そうか」


咢の顔に笑みが浮かぶ。

それは微笑みなんかとは遠くかけ離れた、あえて言うならば「戦いを望むもの」としての笑み。

ゾク、と鳥肌が立った。









帰り道、咢も私も話さない。

咢の笑みを見てから、何となく話しかけるのが気まずいのだ。

夕陽が背後から私を焼く。

犬の遠吠えが聞こえた。


「……犬」


私は「それ」を思い出して呟く。咢には聞こえなかったようだ。

歩みを止める。


「咢」


華奢な後姿が夕陽に照らされている。

咢はゆっくりと振り向いた。私は呼吸を整える。


「何だよ」

「…『空の王』に最も近いと目される予定の男がこの街にいる」

「!」

「見る?もちろん亜紀人くんと咢さえ良ければ。小鳥に猟犬が振り回される姿、見たい?」

「本当だろうな」

「本当だよ」


夕陽の逆光でよく表情が見えない。

けれど、笑っているような気がした。


「…魅せてもらおうじゃねーの。ソイツがどれほどのものか」









離れについて、玄関の鍵を開ける。今日はちゃんと閉まっていた。




「?」


咢が何かを投げてきた。

半透明のビニール袋。何か入っているようで、少し重い。

中を見ると、南京錠と金具が入っていた。


「俺のエア・トレックまで盗られたら困るからな。つけとけよ、それ」


呆然として咢を見ると、さっさと家の中に入ってしまった。

別段照れた様子も何もなかったから、さっきの言葉はまごうことなき本心なのだろうけれども。


「…ありがとう」


とても嬉しかったことは確かだ。







――金具は私がつけるのだろうか。(工具ないんですけど)

















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対レザ・ボア・ドッグス、亜紀人・咢乱入決定。
2004.8.12

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