14.






ブルズとの、半ば強制参加なバトルも終わり、私は自宅(というよりも自室)に戻った。

喉は渇いていないのだけれど、とにかく何か飲みたくて冷蔵庫を開ける。

随分使っていない冷蔵庫の中には案の定、何も無かった。


「買出し行くか…」


茜色に染まる窓の外を見て、何故だか無性に黄昏たくなった。







のらりくらりと授業を受けて、問題をあてられても慌てず騒がず解く。

それが私のスタイルになりつつある。というより、実際授業はつまらない。

高校の授業は1学期には大体終わっていたし、仮にも大学受験を控えていた身だ。解けないはずはない。

予習復習の手間が省けて丁度良いといえば、良いのだけれど。


、今日の放課後って暇?」


弥生が聞いてくる。

教科書を鞄にしまいながら私は答えた。


「いや、冷蔵庫の中身が空だから買出し行かないと」

「そっか…」

「何かあった?」

「や、あるっていうより、ある予定なんだけどね。…数学の問題あてられちゃって」

「どれ?」

「これなんだけど」


鞄から数学の教科書を取り出して広げると、弥生はパラパラとそれをめくり、問題を指した。

今は三角形の相似の分野を習っている。弥生が指したのは、その応用問題だった。

勉強は嫌いではないけれど特に好きというわけでもないので、「応用」という単語に眉を一瞬だけ顰めた。


「あー、えっと。これはアレだ。中点連結定理つかうヤツ」

「中点…ああ、そういえば。あ、じゃあ後は錯角と同位角で証明すればいいのね」

「そういうこと」

「ありがとう!いつかお礼するわ」

「いいよいいよ。じゃ、私帰るから。またね」

「うん、バイバイ」


カラカラと教室のドアを開ける。その瞬間、ある光景がフラッシュバックした。

夕日に染まる廊下、遠くに聞こえる運動部の喧騒、『新聞部』の表札。

それは高校の思い出。

後ろ手でドアを閉めた。







基本的な調味料は買ってあるので、主に食材中心に買い揃えていく。

いつまでも「食事の用意が面倒くさい」などと言っているわけにはいかないだろう。

ふとした瞬間から急にお腹が空きはじめるかもしれない。

安いスーパーなどの情報を鰐島海人に送っていたおかげで、ある程度の底値は知っている。

大根、白菜、春菊、鶏肉、あとは適当に。今日は水炊きでもしよう。楽だし。

「猿でもできる」シリーズの本は偉大だと、つくづく思った。




支払いを済ませてスーパーを出る。

買い物袋がやたらと重い。大根のせいだ。袋からはみ出しているせいで腕にあたって痛い。

ああ、そういえば米も買わないといけないのだった。

エア・トレックで滑るように移動しながらため息を吐く。


「もしもし、そこのお嬢さん」


声をかけられる。まわりには主婦しかいないので、消去法で私を呼んでいるのだと分かる。


「なんですか?」

「お嬢さんは、さんかな?」


少しばかり目を見開く。

そこにいたのは豊かな白い髭を揺らし、渋い緑色のスーツに茶色いコートと帽子を着用した老人だった。

取っ手が鳥の嘴のようになっている杖に両手を乗せて、ベンチに座ってこちらを見ている。


「何で名前を?」

「ああ、すみません。こちらから名乗るのが礼儀でしたな」


私はこういうものです、と幾分しわがれた声で言い、名刺を差し出してきた。

不審に思いながら名刺を受け取ると、意味不明な文字の羅列…いわゆる英語で書かれていた。

何とか"Lawyer"という単語と、おそらく氏名であろう"NOZOMI SHIROYA"という部分だけ読み取った。


「シロヤ ノゾミさん、ですか」

「いやはや、女性のような名前でしょう。何でも、母は女の子がほしかったらしくてですね。

私にそのツケが回ってきたというわけです」


おどけた調子で言う。

この老人の声は不思議と人を安心させる力があるように思う。


「弁護士の方が、私に何か?」

「そうそう、話に夢中になるところでした」


老人…シロヤさんはコートの襟を立てなおし、左右を交互に見て、スーパーの隣の喫茶店を杖で指した。


「風が吹いてきましたな。どうです、あそこで暖かいものでも飲みながら話しませんか」

「よろこんで」


ちょうど寒いと思っていたところだったので、その誘いに乗った。







お待たせいたしました、と可愛らしい制服を着た店員がコーヒーと紅茶を持ってくる。

シロヤさんはコーヒーを受け取ると、カップを鼻に近づけて香りを楽しんだ。


「いい豆が使われていますね。私はハニーコーヒーが一番好きですが……おっと、こんなことを言うと、

ますます名前に合致してしまいますな。今回はブラックで飲むことにしましょう」


私は出された紅茶をストレートで飲む。もはや緑茶感覚である。

ふわり、とコーヒーの香りがこちらにも漂ってきた。


「それで、何か」


このままではいつまでも雑談に興じてしまいそうなので、早々に切り出す。

シロヤさんは穏やかな笑みを浮かべる。この笑顔だけで人を信頼させてしまえそうな笑みだ。


「実は、お嬢さんのお父上とお母上から頼まれましてな。

単刀直入に言いましょうか。ご両親は、貴女と一緒に暮らしたがっておられますよ」

「……!」


笑みを崩さぬまま、シロヤさんはスーツの懐に手を差し込み、名刺をもう一枚差し出した。

今度は日本語で書かれている。


「『顧問弁護士、白家 望』……そうですか」

「何かと物騒な世の中ですからね。ありがたいことに私のような老いぼれにも仕事が回ってきたわけです」

「父と母は元気にやっていますか?」

「ええ。仕事のほうも軌道に乗られまして、この間家を建てられましたよ。それで、この機にお嬢さんを、と」


私は今、混乱しているのだろう。

どうでもいいことばかりが頭の中に浮かんでくる。

今日の夕食は水炊きだけれど、やっぱりやめようか、とか、寒い中銭湯に行くのは面倒だな、とか。


「………」


絵美里と弥生と話がしたい、とか、子烏丸の結成を見たい、とか、咢に会いたい、とか。

…何故ここで咢の名前が出てくるのだろうか。わけが分からない。

ジク、と胸に走る痛みを否定する。違う。これは違う。


「…急に言われましても。私もこちらでの生活に慣れたところですし、友達もできましたし」

「ええ、それはご両親も懸念なさっておいででしたよ。友達と引き離してしまうのは可哀想かもしれないと」

「だったら」

「けれど、それでも我が子と一緒に暮らしたいというのは…一番純粋な、親としての気持ちなんですよ」


私とて、親元を離れて不安が無いわけではない。不測の事態に陥ったときに頼れる人がいないのだから。

しかしそれでもここを離れたくないという想いがある。


「両親は今、どこの国にいるんですか」

「イギリスです」

「行ったら、日本には滅多に来れないんでしょうね」

「そうですね」


白家さんは静かに目を伏せる。

カチャ、と音を立てて紅茶のカップを両手で包み込むように持つ。大分ぬるくなってしまった。


「すみませんが」

「……断らないでくださいね」

「…どういうことですか?」


ふー、と長く細い息を吐いて、白家さんは話し出す。


「私にも孫がいまして――孫は日本にいるものですから、色々と聞き及んでいるのですよ。

たとえば、貴女が履いているようなエア・トレックのことなども」

「危険だと思っておられるのですか?」

「――はい。もちろん、インラインビクスなど、ルールを守れば平和的に使うこともできますが。

というよりも、それが一般的なのですよね。ですが近頃、若い人たちはそれを暴力的に活用していると」

「少々誤解なさっているようですよ」

「そうでしょうね。私の情報は孫からのものだけですから…。ですがそれで死人が出ているのも事実です」


私は目線を鋭くする。別に白家さんを責めるわけではない。

白家さんの言うことは事実だし、間違ったことは何も言っていない。

私にしてもエア・トレックでのバトルを「楽しいから」などの感情的な理由以外に弁護する言葉は見つけにくい。

感情はもっとも信頼性の低い弁護だ。


「戦い……バトル、というのでしたかな。それを止めろとは言いません。

このような老いぼれには考え及ばぬ意思があるのでしょう。人の感情ほど読みにくいものはありませんから。

ですが、いくら本人たちが平気な顔をしていても……私たちのような、見守る側は大変不安なのですよ。

いつ我が子が、我が孫が怪我をするか分からない、もしかしたら命を落とすかもしれない…と思うと」

「………」

「どうか、それは分かってください」


小さな牙の王がエア・トレックを駆る姿が、先程から頭の中にちらついて煩わしい。

テーブルに肘を付いて両手を組み、それで閉じた目を覆った。

動悸が激しい。

私はここを離れることになるのだろうか。その不安だけが大きくなっていく。反論の術がない。

誰かこの状況を打開してくれないかと、人に頼る感情が疎ましい。


「親の気持ちも、白家さんの気持ちも、分かるんです」


私も、いつ彼らが――彼が怪我をしやしないかと思うと、とても不安になる。


「バトルが危険だということも分かっています」


この街からエア・トレックのバトルを失くせば、それだけで犯罪件数は激減するだろう。


「でも」


だけど、それでも譲れないのは。


「誇りなんです」

「…誇り、ですか?」

「チームには、そのチームの誇りの具現であるエンブレムがあります。

ライダーはエンブレムを、ひいては誇りを守るためにバトルをするんです。誇りを掲げているんです」

「………」

「掲げた誇りを折られることのないように、誇りを更なる高みへと上げるために。私はそれを美しいと思う」

「…美しい?」

「少なくとも私はそう思います。バトルは危険ですが、それでも……

……ええと、すみません。何言いたいのか分からなくなりました」


少しの間を空けて、白家さんは張り詰めていた糸を緩めるように、フ、と表情を緩めた。

その表情に訳もなく安心して、私は息を吐く。

冷めてしまった紅茶を一気に飲み干した。


「…どうやら、私の誤解はいささか大きすぎたようですね。表面しか見ていなかった。貴方もそう思うでしょう?」


白家さんはそういって、カウンターに座っている長髪の男性に声をかけた。

金髪に黒の上着、そしてブーツカットのジーンズ。

微妙に、いやかなり見覚えがあるのは気のせいだろうか。


「まあ、要するにはこの街を離れる気は無えってことだ。諦めるんだな」

「そうですね。ご両親のほうには私から話をしておきましょう。

ただ、そうなると信頼のできる保護者を探しておいたほうが良いかもしれませんね」


私はただただ呆けて、目の前の2人の会話を聞いている。


「……何が言いたい?」

「彼女の保護者になってはくれませんか?特殊飛行靴暴走対策室室長、鰐島海人さん」

「は!?」


いやちょっと待ってなんでここにいるんですか、という気持ちを込めて声を発する。

残念なことに、誰も私のそんな気持ちを察してはくれなかった。


「何で俺がそんなことをする必要がある」

「名目上ですよ。手続きなど、色々とすることがあるもので。

お二人は知り合いのようですし、貴方は警官ですから、書類上でこれ以上信頼できる保護者はいないでしょう」

「え、いや、あの、白家さん?なんで知ってるんですか?」

「彼は有名ですから」

「有名って…」


言いかけたら鰐島海人がすごい勢いで睨んできた。怖いので黙る。


「正直、私も連れ戻すことにはあまり気が進まなかったものですから。友達と離れるのは辛いものですしね」

「じゃあ最初からそう言っとけば良かったじゃねえか」

「言い訳がほしかったんですよ。彼女も離れたくないようですし。いやあ、青春ですなあ」

「はあ?」

「いやいや、私も若い頃はよく恋をしたものです。内気だったので告白などはしませんでしたがね…」

「ちょっと待ってください」


聞き捨てならない台詞に、二人の会話に無理やり割り込む。

いくら白家さんとて、今のは聞き捨てならない。


「誰が誰に、恋をしている、と?」

「ですから、さんが、誰かに」

「してませんよ」

「していますよ」

「してませんって」

「お気付きになられていないようですねえ。年寄りを舐めちゃいけませんよ」


すかさず反論しようとしたら、珍しく鰐島海人が興味を示してきた。

カウンターの椅子の背もたれを前にして座り、コーヒーのカップを持ちながら言う。


「お、なんだ。誰かに恋してるのか。言え」

「いやあの、してませんから」

「してるんだろ」

「ふ、二人がかりでそれを言うんですか…!?」


カチャ、とカップを持ち上げ、冷めてしまったであろうコーヒーを一口飲んで、白家さんは口を開いた。


「私との会話中、一番頭に浮かんでいたのは誰ですか?」

「…!」

「繰り返しますが、年寄りを舐めちゃいけませんよ。純粋な感情は読みにくく、どんなものにも左右されない」


頭に浮かんだ人って。

だって、それは。


「…百歩譲って、私が恋をしているとします。白家さんとの会話の中で一番頭に浮かんだ人物に。

でもそうすると、理由がありませんよ。好きになる理由が」

「感情は理屈じゃないんですよ。それに、理由は言葉にできないだけでちゃんと心の中にあるものです」


白家さんは、人を安心させる笑みをまた浮かべた。

それだけで私は白家さんの言葉を全て受け入れてしまいそうになる。

催眠術師になれますよ、と言ったら笑われたけれど。


「じゃあ貴女に催眠術をかけましょう。貴女が一番思い浮かべた人物に会ったとき、

心臓が少しでも早くなったら、それは恋です」

「催眠術でもなんでもないですよ、それ」

「私は催眠術師じゃありませんからね」


このままでは永遠に後手に回ってしまいそうだったので、私は早々と諦めた。


「じゃあ、そういうことにしておきます。私は誰かに恋をしているんですね」

「どうも胡散臭いですねえ」

「これ以上どうしろと……」


小さくため息をつく。

待ちかねたように鰐島海人が言葉を切り出した。


「オイ、じいさん。気が変わった。俺がこいつの保護者代理だ。書類よこせ」

「物騒な人ですね、新宿の鰐は。今は持ってきていないので、手帳に住所を書いてください。郵送します」

「いいんですか?」

「気が変わったからな」

「ありがとうございます」







誰からともなく席を立ち、勘定を済ませて店を出た。

ちゃっかり、白家さんに奢ってもらっていたりする。自分で払うと言ったら微笑まれつつ怒られた。

帽子を胸に当ててペコリとお辞儀をし、白家さんはタクシーに乗ってどこかに行ってしまう。

私と鰐島海人が残された。


「静かな人なのに、まるで嵐だ…」

「同感だ」

「同意ありがとうございます。あ、今日は卵がタイムサービスです」

「お前は?」

「今日は卵は使わないので」

「そうか。判子は持っているのか?」

「家に」

「必要があればメールにその旨を入れる。ああ、面倒くせえ…」

「…すみません」

「ここは謝るところじゃ無ぇよ」


鰐島海人はスーパーのほうに歩いていった。

すでに半分くらいしか見えない夕日を見ながら、今日は夕飯作るのやめようかなと思ってたそがれた。







家に帰り着く頃には日は完全に沈んでしまっていて、暗い部屋の電気をつけて野菜を冷蔵庫に入れた。

もう、夕食を作る気にはなれない。

カーテンを閉めようと窓の側に行くと、イッキと亜紀人と林檎が帰ってくるのが見えた。

鼓動の変化はない。やはり恋などしていないのだ。




シャッと音を立ててカーテンを閉める。

その直前に亜紀人が転んだ。思わず閉める手を止める。

どうやら転んだ拍子に眼帯がずれたようで、何やら大変なことになっていた。少し笑える。悪いけれど。


動悸がほんの少しだけ、早まった。


それがなんだか無性に疎ましくて、胸に靄がかかったようにすっきりしなくて、苛付いて。

かといって部屋の中のものに当たることはできず。

とにかく叫びたくなる衝動を必死で抑えて、イッキが咢を押さえ込んで亜紀人に戻すのを見届けて、外に出た。

エア・トレックにカモフラージュの飾りは付けなかった。




いつも練習する河原に来て、使われなくなって解体された鉄橋の支柱を力任せに蹴る。

コンクリートのそれは、2,3度蹴るだけで石ころの集合体になった。

何故だろう。すっきりしない。

すっきりする方法は分かっている。認めることだ。しかし認めたくない。いわゆる意地だ。

ああ、もう、全く持ってけしからん。







。中学2年生。実年齢、大学生(になる予定だった)。

夕にたそがれ、闇に崩落。















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何書いてんだか(本当にな)。
この日の朝に、副音声イベントがあったと思ってください。海人兄さんは喫茶店でたそがれてたんです。多分。
2005.1.22

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