last.さよならとおかえり
――Word of reconciliation――


 自分以外に誰もいない部屋の中で、私は日記を書いていた。これを始めたのは確か編入してすぐだったから、飽きやすい私にしては随分長く続いた方だ。勿論毎日書いていたわけじゃなくて、たまには2,3日のブランクがあったりもしたのだけれど、それでもその程度に留められたことは良いほうだった。
 本当に、日々の日課は容易に作ることのできないものだと思い知る。

「……で、パセリ……じゃない、バジリスクは、野菜好きの方のリドルを見ると硬直しました」

 そこまで書いて、噴出して笑いたいような、けれど笑ったら失笑になってしまいそうな、そんな変な思いがわいてきた。とりあえず一旦羽ペンを置いて伸びをする。3日前のことを記しているとどうしても物語口調になってしまうのだけど、これは癖なんだろうか。

 ほぼ原作通りの展開を辿ることになった今年、それでも余計な存在である私とリドルのせい(だと思う)で色々イレギュラーな事件が起こったりもしたけれど、終わってみればそういう事件はどれも大筋に関連していなかった。起ころうが起こるまいがどうでもいい事柄だったのである。
 リドルにしてみればそれがとても不服だったらしくて、ハリー・ポッター2年生のフィナーレに近づくにつれて焦りもイライラも募っていたみたいだったのだけれど、それは後から聞かされて分かったことで、そのときの私は全く気付いていなかった。平静を装っていたんだろうか。やっぱり凄い人なんだと思う。

 私の方はというと、リドルというモテ要素満載の生徒と比較的一緒にいたからか、少しやっかみを受けることになった。寧ろ受けない方がどうかしているんじゃないかというくらい彼は人気があったから、こそこそと陰口や嫌がらせをすることなく面と向かって抗議してきた女の子たちに現状を説明し、誤解を解いてもらえたことは幸運だったんだろう。現状説明というか……恋愛要素はひとかけらもないと言っただけだ。説明してちょっと悲しくなった。私はリドルが嫌いじゃない。恋とか愛とかではないと分かっているけれど、なんとなく寂しかった。

「続き書こうかな。――でも、後から日記の方のリドルも出てきて、バジリスクはあっさり日記を選びました。……何でだっけ。あ、そうだ、野菜のリドルは、つまるところヴォルデモートに『いらない』と言われた部分の寄せ集めなので、パーセルタングを持ってなかったんです。というより本人いわく、魔力とか知識とか、そういう『掠め取った』もの以外何も持ってないそうです。大変だなあ」

 ううん、と書きながら唸る。リドル本人は何でもないように言っていたが、それってすごく不便なことなんじゃないだろうか。戸籍もなければそもそも体すらない。魔力は使ってしまえばそれまでで、自力で回復することができない。そう考えて、私はリドルについて知らないことだらけだなと思い至る。
 戸籍の方は色々と表立って言えない方法でどうにかなったらしいけれど、おばあちゃんの家に来るまでの経緯を彼は話そうとしなかったし、成長しないらしいから一ところに留まるわけにもいかなかっただろう。

 苦労したのかな。
 悲しいこともあったんだろうな。
 嬉しいことはちゃんとあったのかな。

 考えてもどうしようもない。これは本人しか分かることのできないものだ。私が知っているリドルはナルシストで、野菜を育てるのが好きで、畑いじりが好きで、どうしようもないくらい野菜が好きで好きでたまらない人だ。
 それでいいんじゃないかと思う。
 リドルは私に過去や気持ちを伝えようとはしないし、私もきっとこれから先もリドルの気持ちを理解できないままでいるんだろう。だったらせめて、リドルの作った野菜の世界を眺めていられる人間でありたい。

 コツ、コツ、と、窓の外側をフクロウがつついている。そっと開けて足にくくりつけられた小さな袋を取ると、部屋の隅に置かれた小さなプランターに中身を埋めていった。

「もうすぐ実るね」

 小さなナスが、肥料を得て嬉しそうに風に揺れた。
 日記を閉じて、ベッドに入って目を閉じる。早くおばあちゃん家に帰りたいと思った。



 ホグワーツ特急が甲高い汽笛を鳴らしながらゆっくりと停車していく。最後にひとつ大きく揺れて、ホグワーツ生全員を乗せた揺りかごは現実との境目に立った。
 駅構内で待ち構える数多の保護者の姿を何となく羨ましく思いながら、私は向かいのリドルに声をかける。

「リドル、リドル。着いたよ」
「……ん?ああ、ごめん。つい夢中になってしまったみたいだね」

 窓の外を確認し、苦笑しながら分厚い本を閉じる。ふと読んでいた本のタイトルを見ると『野菜の育て方大辞典』と書かれていた。どこまでも期待に応えてくれる人だと口には出さずに心で呟く。

「戻ったら何か収穫できる?」
「そうだね。間に合えばアスパラガスと、トマトがこれから。ニラ、ピーマン、南瓜と……あと、ナスかな」

 リドルは私の隣に置いてあるプランターを見ながら笑って言う。このナスは日本のものだけど、イギリスの気候と日本の気候が違うせいか少し成長が遅い。それでも小さな実がなっているから、リドルの畑ではおそらくもう大きくなったものもあるんだろう。

「焼きナス好きだよ」
「じゃあ先生に作ってもらおうか。田楽とかもいいね」
「あら、何の話をしているの?」

 ヒョコ、とコンパートメントに顔を出して尋ねたハーマイオニーに、リドルと私は同時に「ナスの話」と答える。ハーマイオニーは驚いたように目を丸くして、その後ろにいたロンは「うげえ」と顔をしかめた。どうやらナスは嫌いらしい。ハリーはというと……いない。

「ハリーはもう降りたの?」

 そう聞くと、ハーマイオニーが苦笑してロンが明後日の方向を向いた。

「ハリーったら、リドルに会いたくないみたいなのよね」
「ほら、僕とハーマイオニーはともかく、あいつは特に日記リドルに酷い目にあわされたからさ」
「おやおや。嫌われたかな?」

 鞄の整理を終えてローブを羽織りながら事も無げに言うリドルに、真面目なハーマイオニーは少し考えて答える。私も身支度をしなければならないのだけれど、どうにもまだローブに慣れないのでリドルに結んでもらう。

「多分、そうじゃないわ。一年間あなた達と付き合ってきたのだし、あなたが……野菜リドルが日記リドルとは違うってことは分かってるんだと思うの。ただ、まだ割り切れていないのよ」
「だよなあ。日記リドルはすっげー嫌な奴だったけどさ、こっちのリドルはどう贔屓目に見ても、1に野菜、2に野菜、3・4も野菜で5にって感じの野菜バカだし」
「はいはいありがとうロン君ウィンガーディアムレヴィオーサ」

 リボンを結び終えたリドルはロンを見て朗らかに笑うと杖も持たずに言う。ふわりと彼の鞄が浮いて、綺麗な放物線を描くとロンの頭に命中した。それほど大きな音がしなかったのである程度加減はしているみたいだ。

「いったいなあ!なにすんだよ!!!」
「……さっきのはあなたが悪いと思うわ、ロン」
「ハーマイオニーまで!、何か言ってやってよ!!」
「いや、えーと。……暴力反対?」

 何を言ったら双方に角が立たないのか思いつかず、適当に浮かんだ言葉を口にする。ロンは当てがはずれたとでもいうように肩を落としたが、その行動に反しリドルにはいくらか効果があったらしい。
 リドルはあからさまにショックを受けたという表情で座席に座ると背もたれに顔を埋めた。

……!僕は君をそんな風に育てた覚えはないよ……!!!」
「……うん。私も育てられた覚えがないよ。ごめん」

 とりあえずお約束の切り返しをしながら、さめざめと嘆くリドルを宥めることになった。



 監督生に急かされて降り立った駅構内でロンとハーマイオニーがそれぞれの家族に出迎えられるのを横目に見ながら、私はリドルが取ってきてくれたスーツケースを杖代わりにプランターを抱えてぼんやりと立っていた。リドルは自分の荷物を取りにもう一度貨物車に向かっていった。先に自分のを取ってくればいいのにと申し訳ない気持ちになるけれど、それは彼の優しさなんだろうと勝手に結論付けて、何も言わないことに決めた。
 ふと、ロンとその大家族から少し離れた所にハリーの姿を見つける。少し考えて、私はそこに向かった。

「ハリー」
「え?あ…………」

 気まずそうに視線を逸らすハリーに、何と言ったものかと躊躇する。リドルの弁護をするのは筋違いな気がするし、かといってこのまま避け続けてもらいたくもない。我侭だと分かっているけれど。

「……リドルのこと割り切れって言いに来たの?」
「うん、そんな感じ」
「列車のなかでロンとハーマイオニーにも言われたよ」
「そうなんだ。やっぱり難しい?」
「難しいっていうか……だって、いくら記憶っていっても、もとはヴォ……アイツじゃないか。何かの切欠で強い力を手に入れたりしたら、絶対に同じことをするに決まってる」

 理屈は通っていると思う。多分、基本的な性格はヴォルデモートも日記リドルも野菜リドルも同じだろう。
 ただし違うのは、野菜リドルだけが他の二人(日記リドルは、日記に封じられた時点で時間の制約を受けていないけれど)とは異なる環境で過ごしたことだ。それがどの程度影響しているのか分からないけれど、ハリーに教える価値はあるんじゃないかと思った。

「リドルね、野菜がすっごい好きなんだ」
「……知ってる」
「おばあちゃんの畑はほとんどリドルが管理してるし、寮にもプランター持ち込んで野菜植えて、育て方の研究して、その上それを論文にまとめてどこかに提出してた」
「…………」
「何て言えばいいのかな。ええと、方向は少し変わってるかもしれないけど、リドルの野菜に対する愛情は間違いなく本物だと思う。だから、世界を野菜色に染めようとか変なこと考えない限り大丈夫なんじゃないかと」

 言っていてわけが分からなくなってきた。野菜色ってなんだろう。確実に色じゃないだろうなあ。

「だからその……あ、そうだ。一度泊まりにおいでよ!」
「……は?」
「間近であの溺愛ぶりを見たら、何か分かると思う」
「何かって何?」
「説明するの難しいんだけど、何か。多分ハリーは安心する」

 それは確信でもなんでもなく、ただの希望だった。リドルはナルシストだし結構自分本位だし性格もたまに悪いけれど、それでも畑を見ているときの穏やかな表情は作り物じゃないと思う。
 言うだけならいくらでも言える。けれどきちんと分かってもらうには多分、実際に見るしかない。学校にいるときのように、涼しげに野菜への愛を語る姿じゃなくて、野菜に向き合って世話しているときのリドルを。
 ハリーは少し戸惑うようなそぶりを見せたが、やがてロンの家族に呼ばれて団欒の輪に入っていった。



 ロンドンと日本の時差を考え、ダイアゴン横丁を気ままに歩き、最後は漏れ鍋で時間を潰すことにしたリドルと私は、何故か漏れ鍋内部でウィーズリー一家・グレンジャー一家と談笑していた。正確に言うならリドルが。ハーマイオニーとロンと私はテーブルの隅でアップルパイを食べていた。

「あら、じゃあ貴方もハリーと同じ、クィディッチの選手なのね」
「ええ。といっても補欠ですし所属はスリザリンですから、グリフィンドールとはある意味敵対していますけど」
「クィディッチだし、競い合ってなんぼさ。しかし勿体ないなあ。何で君はグリフィンドールじゃないんだろう」
「ありがとうございます。でも薬学が好きですから、その教授が寮監のスリザリンで良かったと思っています」
「まあまあ。勉強熱心なのね、ジョニー君は」
「それほどでもありませんよ」
「うふふふ」
「ははは」

 ハーマイオニーとロンと私は無言で目を合わせた。そしてなんとも言えない溜息をつく。

「……ジョニーだってさ」
「でも正解だわ。ロンのご両親くらいの世代なら私たちより『リドル』を知っている可能性が高いもの」
「それは分かるけどさ。もっとこう……あるだろ。アキレスとかアウグストゥスとか」
「ロン、あなたローマ史とローマ神話読んだわね。それも英雄伝だけ」
「いいじゃないか格好良くて。なあ、?」
「……確か、リドルお気に入りのプチトマトの名前がジョニーだった」
「…………」
「…………」

 そうして今度はお互い何となく視線を外して、アップルパイを食べ、少し冷めた紅茶を飲む。ふと時計を見ると夕方の5時少し前で、そろそろ帰る時間だということに気がついた。今頃日本は朝の8時くらいだ。
 リドルの方を見ると、彼は予想していたように笑い、大人たちに魅力的な笑顔(らしい)を見せ、日本へと帰る旨を告げると席を立って私達の方に来た。

「お待たせ。じゃあ帰ろうか」
「うん、ジョニー」
「………、少し双子の影響を受けたみたいだね」
「そんなことないよ」

 笑いながら鞄を肩に下げ、スーツケースを転がし片手にナスのプランターを持つ。すると自然な動作でリドルがプランターを持ってくれた。英国紳士ってこんな感じなんだろうか、とその所作に感心しているらしい大人たちを見ながら考える。ありがとうと礼を言うと、いえいえと返ってきた。

「では、僕たちはこれで失礼します」
「残念だわ。暇があれば、二人とも是非うちに遊びに来てちょうだいね。歓迎するわ」

 漏れ鍋の暖炉に入ったリドルと私に、ウィーズリー婦人が微笑んで言う。ロンを見ると親指を立てていたから、嬉しくなって思い切り頷いた。

「じゃあ行くよ。、しっかりつかまってて。オキナワ、――」

 リドルが言い切る直前、漏れ鍋の、ダイアゴン横丁側の扉が大きな音を立てて開いた。驚いてそっちを見ると、盛大にテーブルや椅子にぶつかり、たまに倒しながら走ってくるハリーの姿が見えた。全力疾走でもしたのだろうか、額に汗をにじませ頬は高潮し、息を切らせながら私たちのほうを見て何か言いたそうに口を開いたが、フルーネットワークと繋がる方が早かった。移動が始まったのだ。それに悔しそうな顔をして、ハリーは何かを投げる。世界が回転する一瞬前に、リドルの手がそれを掴んだ。



 ドサ、という音と共に、巻き上がる灰に包まれてリドルと私は懐かしい暖炉に出た。土間に作られた暖炉なので靴は脱がずにそのまま出る。服に付いた灰を払っていると、土間と居間を仕切る曇りガラスの引き戸が開かれ、中からおばあちゃんが私たちを迎えた。

「おやまあ、おかえりなさい、二人とも」
「ただいま帰りました、先生」
「おばあちゃん、ただいま」
「元気そうねえ。良かったこと。さあさ、手を洗っておあがりなさいな。ご飯は食べたの?」
「向こうではディナーの時間に近かったから、軽くね」
「アップルパイ食べたよ」

 あらあら、と柔らかく笑って、おばあちゃんは台所に向かう。もう一度念入りに灰を落としてローブを脱ぎ、荷物は土間においたまま居間に上がる。そのまま部屋に戻って着替えるが、服が少し大きかった。体がまだ縮んだままなのだ。ちゃぶ台の前に座ると、少ししてリドルもぶかぶかの服を着て降りてきた。
 おばあちゃんが麦茶を持ってくる。久しぶりのそれを一気に飲み干すと一瞬だけ体に違和感を感じ、気が付いたら体のサイズが元に戻っていた。そういえばおばあちゃんは魔法薬学の先生だったなと麦茶をまじまじと見て、麦茶の中に浮かぶ青い茶葉のようなものを見つける。綺麗だ。
 リドルは、ハリーが投げたもの――小袋を開けて中身を検分していた。

「これは……」
「あらあら、まあまあ」

 リドルとおばあちゃんが驚いている。どうやら中身は何かの種みたいで、小さな粒がたくさん入っている。しばらく目を丸くしていたリドルは、ややあって噴出した。

「馬鹿だね」

 そういうと袋の口を縛り直し、居間のテレビの上、縁側と反対側の壁に備えられた飾り棚に置いて外に出る。「畑を見に行ってくるよ」と歩き出したリドルの背中を見ていると、おばあちゃんが笑っていた。

「何か変な種だったの?」
「いいえ。タマネギの種よ。ただ、タマネギの種は9月から10月に蒔くのよねえ」
「9月。学校始まってるね」
「そうねえ。でもこれ、羊皮紙に包まれているってことはダイアゴン横丁で見つけてきたのかしら?あそこには薬草の種はあっても、こういう普通の野菜の種は滅多にないはずなんだけど」
「…………」

 ダイアゴン横丁。息を切らせていたハリー。滅多に置いていないという、野菜の種。
 飾り棚を見る。いても立ってもいられなくなって、壁に掛けられた麦藁帽子を手に取ると縁側から飛び出した。

「畑に行ってくる!」
「行ってらっしゃい。気をつけてね」

 居間のテレビの上の棚は、この家で一番良い飾り棚なのだ。

 柔らかく微笑んで、おばあちゃんが座ったまま手を振る。それに私も振り返しながら、リドルに追いつけるよう駆け足で獣道を駆けていった。

 初夏の太陽が、沖縄の朝を力強く照らしている。




fin.
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2008.6.16
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