天球ディスターブ 【間章】 前編





灰色の空を覚えている。

排気ガスの溜まっている道路、無機質なコンクリートのビル、それでも微かに残る緑。

足早に通り過ぎていく人々。しきりに時間を気にしながら横断歩道の信号が変わるのを待っていた。

学校へと向かう生徒。テストが返ってくると悲愴な面持ちで、しかし次の瞬間には笑っていて。

――それから。


当たり前のように享受していたもの。そこに在ることを当然だと思っていたもの。


それはあまりにあっけなく、気付いたときには既に無かった。











「…………」


闇の中に目を開き、上体をゆっくりと起こす。パチパチと焚き木のはぜる音が小さく耳に届いた。

獣除けに焚いている火は消えずに赤々と燃えており、はぼんやりとした頭で現在の時刻を探る。

――夜明けまで、あとどれくらいだろうか。

木が茂っている場所で野営をしているため光は当てにならないが、それとは関係なく暗いようだ。

どうやら自分は相当の早起きをしてしまったらしかった。

焚き火の傍に置いていた小枝を火にくべ、二度寝の甘美さに酔いしれようと再びマントにくるまる。

そして目を閉じようとしたとき、不意に先刻の夢が思い出された。


初めてかもしれなかった。


――元の世界の夢を見たのは。






木々の梢がざわめいた。忍び寄る気配は、見えない壁に阻まれる。






翌朝、二度目の起床では葉の間から差し込む光に目を開けた。

一度起きているため目覚めはいつもよりスッキリしていて、起きると同時に行動に移ることが出来た。

近くを流れる小川で顔を洗い、昨日の残りのスープを温め堅焼きのパンを浸して食べる。

野宿の方法を教わったわけではないので我流だが、とりあえず倒れなければいいだろうと思う。

立ち寄る街々の宿屋で足りない栄養素をなるべく補うようにしているので死ぬことはあるまい。

随分適当な考えだと呟いた声は、しかし少しだけ楽しさを含ませていた。






現在地を確認しよう。焚き火に土を被せ、地図を開く。

同盟軍の城――もうデュナン国の城になっただろうか――を発ち、半年ほど経つ。

もちろんその期間全てを旅に費やしたわけではない。宿で過ごした時間も相当なものだ。

旅に関して全くの初心者であるのそれは、かなり制限を受けてしまう。

罠を仕掛けることも獲物をさばくこともできず、

食用植物の知識を持たないは食料の現地調達ができないし、

なにより野宿に慣れていないため、どうしても寝不足になり体力回復がままならない。

自分は旅に向いていないのではなかろうか。

よしんば慣れたとしてもそれはすごく遠い話なのではなかろうか。

遅まきながら理解したのは、城から歩きなおして自力でバナーの村に着いた時だった。


「ええと……結構近くまで来たかな」


地図を地面に置き、方位磁針をその上に置いて方角を確かめ、目線の先にあるものを見て言う。

――竜洞騎士団自治領。

トランに入ってから一直線に目指してきた。

に会ったら名残惜しくて出発が遅れると思い、グレッグミンスターに寄ることすら避けた。

しかし厳密に言うと目的地は竜洞ではなく、その先である。

は一度深呼吸をして歩き出した。






――そしてにべも無く追い返される。

入れてくれると確信していたわけではなかったが、やはり落ち込んでしまう。

は右手に集中する。テレポートは使わないつもりだった。

行ったことのない場所なので失敗しないと言い切ることができなかったからだ。

しかし、だからといって竜洞に無理に入る気はない。――入れるとも思わない。

本来竜洞は外界と隔てられた場所である。否、隔離されなければならなかったのだ。

軍事力の大きさと希少さ故に。


心臓が高鳴る。失敗したらどうしよう。元の場所に上手く戻れるだろうか。

遙か彼方の場所ではなく、ある程度近づいた所だから成功率は高くなっていると思うのだが。

大きく息を吸って、吐いて、吸って――は紋章を発動させる。


遠くに人の姿が見えた。気のせいだろうか、紋章が反応したように思えた。


消える瞬間に目に入った、小さな花を摘み取った。








終わりの見えない崖の下から風が吹き上げる。

途方も無く高い岩壁が太陽を隠す。

水晶がそこここに咲き乱れ、わずかに届く光を受けて柔らかな美しさを醸し出す。

これが太陽で無く月夜の青白い光であったならまた違った美しさがあるのだろうかとは思う。

深い渓谷の狭間に存在する水晶の谷――シークの谷、その終わりには立つ。

傍らに名前を忘れた大きな植物、振り向けば小さな広場、その中心にぽつんと置かれた名も無き花。

はその花の横に持っていた花を置いた。


「初めまして」


小さく呟く。

会ったことはない。存在を聞かされた記憶もない。接点は少なくともにはない。

だが、会いたかったと思う。誰かから伝え聞いてみたいと思う。接点が欲しかったと思う。

それがの意思なのか紋章の意思なのか断定することはできない。

純粋に「」が会いたかったのか、紋章を束ねる「天球」が会うことを望んでいたのか。

意思を持つ真の紋章が宿主に影響を与えるという考えをは元の世界で仕入れているが、

それが自分に適用されるのかということになると、分からないと言うしかない。

天球の紋章に限って言えば意思を持っていることに間違いはないのだが、

残念ながらは天球の道化師の性格をあまり把握できていなかった。


「…この度天球の紋章の宿主になりました、といいます。

よろしくお願いします」


そう言って誰もいない空間に向かってお辞儀する。

魂がここに存在しないことは分かっているが、に向かってこれをやるわけにはいかない。

『場所』に対する挨拶回り。しかしけじめ付けにはなると思った。


「リーダーのようなものだそうです。まだ自分でも分からない部分がほとんどですが。

怠惰者なので頑張るとか努力すると確約することができません。

ですが私は厚かましい人間なので、一方的にお願いしたいことがあります」


もう一度、先程よりも深く深く頭を下げる。



と、それからできればルックも。よろしくお願いします。見守ってください」



矛盾には気がついている。

死者が生者に関わることはできない。モンスターという形であれば可能にはなるが。

これは一種の信仰のようなものなのだろうとは思う。

要は気持ちの問題なのだ。

挨拶回りをしたかったのは今のままではどうも座りが悪いような気がしてとにかく何かしたかったからであり、

魂の存在に(しかもここにはない魂に)頼みごとをしたのは程度の軽い「藁にも縋る」思い。

しかしそれでいいと思う。繰り返すが、にとってはやはり気持ちの問題だった。

そう結論付けては右手を見る。応えるように淡く光る紋章を顔の高さまで上げた。

ここ、トラン共和国で訪れたいところはそれこそ星のようにあるが、優先する場所がここ以外にもう一つある。








都市の様相を醸し出す街並みには目を細める。

街の少し手前にテレポートして歩いて入ってきたのだが、近づくたびに大きくなる街はを圧倒させた。

もちろん王都――いや、今は共和国首都か――のグレッグミンスターには及ばないものの、

ここがトランでも有数の都市だということは雰囲気から読み取れる。

職人の街、その表現が一番近いと思う。

は街の人に度々道を尋ねつつ目的地へと歩いていく。

それこそこの街の名所になるくらい有名になった場所なので、

人々はを観光客だと思ったのか(実際それに近いが)微笑んで位置を教えてくれた。

泊まるのなら少々値は張るが角部屋がお薦めだよ、なんたって――はそれに頷いた。


「あんたみたいなのがいてくれるから、この街は活気に溢れていられる。ありがとな」


紹介状を書いてやるよ、宿の主人は俺の友達だから――は笑んで受け取った。


「そこを曲がってまっすぐ行ったらすぐ分かる。正面にあるよ、『けやき亭』は」






件の部屋は連日満員だった。

けやき亭に着き、は違う一室に泊まることになった。

紹介状のおかげなのか、問題の角部屋が空くまでの宿代は支払わなくてよくなったことが幸いだ。

今の宿泊客が帰ったら優先的にその部屋に泊めてもらうことになっている。

そうして、今。


「確かこの時計を――」


かれこれ三日後、は目的の部屋に泊まることができた。

ならばやることは一つである。部屋の隅にある時計を力の限り押すだけだ。

――しかし、いくら押しても時計は動かなかった。

見れば床にしっかりと固定されてしまっている。

考えてみれば当然かもしれなかった。あの人を晒し者にするような人間は解放軍にはいなかっただろう。

は右手を掲げた。固定具を外そうと考えたのだ。

もちろん、テレポートに失敗して地下水道で濡れるのを避けたかったのもある。

だがそれ以上に何となく――本当に何となく、彼の人には真っ直ぐに、正面から向かいたかった。

手を翳し時計を留めているボルトを抜く。

引きずるような音と共に時計が少しずつ動いていく。

そうして現れた。地下に、あの人に続く、階段が。

降りて入り口を閉じる瞬間、部屋の外のざわめきが微かに耳に届いた。






踏み込んだ地下水路には闇しかない。地下にあたるのだから当然だろう。

視覚が遮られて敏感になった嗅覚が不思議な匂いを捉えた。

嗅いだ途端にこれは水だと分かるのに、どこか水でない、そんな匂いだ。

手繰り寄せた記憶からすると、元の世界のアミューズメントパーク、

その中の水を使ったアトラクションに乗っているときに嗅ぐ匂いが最も近いだろうか。

は右手に小さな光の球を掲げた。

何が光っているのか、何故光っているのか、は知らない。ただ光を望んだだけだったから。

いずれゆっくり紋章について検証してみるのもいいかもしれない。テーマならたくさん出せる気がする。

時間もたっぷりあるだろう。そう考えると少しだけ、可笑しいような怖いような、そんな気がした。




冷たく湿り気のある空気の中、苔なのか何なのか、石畳は所々が妙に柔らかく、足音はあまり響かない。

は奥へ奥へと進んでいく。そして――見つけた。

風化できず、しかしだからといって生きてもいられなかった、その結果を。

茶色く変色した腐った花束。もしかしたら虫が沸いているかもしれない。光をあてることは怖かった。

誰が置いたのだろうか。腐るとは考えなかったのだろうか。それとも他に何か理由があったのか。

はかぶりを振る。自分が考えたところで詮無いことだろう。

右手をかざす。花束の残骸が淡く光り、腐った部分が修復されていく。

は過去の姿を取り戻したそれを掴み何度か逡巡した後、地下水路に投げ入れた。

桃色と紅と白い花びらが地下水路に浮いて、沈んだ。




瞑目する。シークの谷の時と同じようなことを胸中で呟いて目を開けた。

光の球を空中に固定するイメージを思い描いて右手を下ろす。腕が少し疲れていた。球はきちんと浮かんだ。

何とはなしに後ろを振り返ると目の端が僅かな違和感を捉えた。

光った――ような気がしないでもない。何かに反射したのだろうか。それにしてはやけに鈍い光だったが。

何かがある。水路の奥まった部分。ここは最初の解放軍の本拠地であったはずだ。

ということは彼の人達がここを出るときに置き去りにした何かなのだろうか。回収などはされなかったのか。

確認しようとが歩を進めた時、右手が僅かに熱を持った。

紋章発動時の熱と似ているが、それよりも少しだけ熱い。――これは。

驚いたが右手に目を落としていると、ヂャリ、と錆びた金属の鳴る音が聞こえた。




「剣だね。酷いなあ、錆びもくるところまできたって感じ。水路だから環境も悪かったんだろうけど」




は目を見開く。光が寸前で止まる暗がりに、何の前触れも無く人が立っていたからだ。

否、人ではない。奇抜な色をした道化師の衣装に水色の髪、右頬の涙のペイント。


「ピエロ?」


思わずは、「彼」と初めて会ったときと同じ言葉を口にする。

道化師はの方を向くと微笑を浮かべ、錆びた剣を掲げると、そのまま大きく振り下ろした。

すると剣は先程までの錆が嘘のようにその鋭い刃をむき出しにいていた。

まるで手品のようだ。は素直にそう思った。ピエロはまじまじと剣を見て言う。


「結構いい剣だよ、これ。あ、銘が彫ってある。んー…擦れてるけど…フ…リ…『フリック』?」

「!」

「心当たりある?」

「……」


その情報をは知らない。彼女の武器は弓矢だったと記憶している。

だが、あり得ないことではなかった。理屈をつけて否定するのは容易かったが何となく勿体ない気がした。

彼女もつけたのだろうか。自分の剣に恋人の名を。武器自体は彼女に合っていなかったのかもしれないが。

――多分それは、がさっきまで黙祷していた人のものだ。


「元解放軍リーダー、オデッサ」


自分はオデッサにどこか憧れているという自覚がある。

それをはっきりと認識したのは先の戦争が終わって少し経ったころだった。

戦争を振り返り己の不甲斐なさを悔いていたときに彼女が思い浮かんだのだ。

彼女のように心が強かったら、彼女のように優しかったらどうだっただろうかとあれこれ考えたのだ。

今更詮方ないことではあったが、どうしても考えずにはおれなかった。

しかしすぐにそれが失礼に値するものであるということに気がついた。彼女とて迷わなかったわけではない。

今回ここに着たのも元はといえばそういう自分の勝手な思考を詫びるためであり、

彼女の存在を――彼女の死を、きちんと認識する足がかりを作るためでもあった。


「――何で、剣だけがここにあるのかな」


は知らず詰めていた息を細く吐き出して言う。

ピエロはゆっくりとこちらに向かいながら首を傾げた。


「さあ?隙間に丁度良く収まってたから気付かれなかったんじゃない?隠してたような印象もあったけど。

今だってキミが気付かなければ多分この剣、ずっとそのままだったと思うし」

「気付いたのは本当に偶々なんだけどね」

「まあ、これも何かの巡り会わせってことなんじゃないの?―――」


突然、ピエロはから少し距離を置いたところで歩みを止めた。

不思議に思ったはピエロを見る。見て――息を呑んだ。

すぐ後ろを流れる水の流れがやけに大きく聞こえる。





深く、どこまでも暗く、昏く。底の見えない深すぎる水のような。吸い込まれ、落ちて、堕ちてしまいそうな。





底なしの暗闇を湛えた道化師の目がを射抜く。

は訳が分からないままどうしようもなく強い恐れを抱き、後ずさる。

空気が小さく震える。感覚的に何かが蠢くのが分かる。衣擦れの音、微かな息遣い、――何かが。

得体の知れない『何か』がいる。自分と同じこの空間に。

その事実はストンとの中に納まり、恐怖を呼び起こした。

状況の理解が追いつかない。何故ピエロはそんな目をするのだろう。ここに『何』がいるのだろう。

ゆっくりと、目の前のピエロの口が開くのをただ見ていた。








「ごめんね」








次の瞬間、腹部のあたりが妙に暖かくなって、すぐに熱くなった。

ぞわりとする感覚がを支配する。不快感と紙一重の感覚。背中も熱くなってきた。


――あの人の剣が、『フリック』が、自分の体を貫いている。


そう認識するのに時間はかからなかった。それと同時に言いようの無い痛みが襲ってきた。

痛覚が神経を通り手足まで伝わってくる。ピリピリとした痺れが四肢を襲う。

立っていられず、の体はぐらりと背後に傾いた。



空気が大きく震える。足音を隠そうともせず、闇の中から『何か』が出てくる。

取り囲んでいく。しかし自分は倒れて行く。ピエロは。



――ああ。

視界が霞んでいる。



無意識に手を伸ばす。引きつるような痛みが全身を襲う。時間がやけに遅い。

痛みに呻きながらは縋るように手を伸ばし、





自分の落ちる、大きな水の音を聞いた。




















はハッと目を開けた。

呼吸が乱れている。まるで今まで息をしていなかったみたいに体が酸素を欲している。

深呼吸を繰り返し呼吸と心臓を落ち着けると、ようやく目の前がはっきりしてきた。

何の変哲も無い天井。そして蛍光灯。窓から入り込んだ風がカーテンを揺らしている。

当たり前の光景。

何も変わったところはない、自分の部屋。


日常。――同時に、非日常。


は右手を見る。腹部に触れる。起き上がって背中に手を伸ばす。


「……ない」


紋章も傷跡も、なかった。何もない。そこにあるのは何の影響も受けていない自分の体だけだ。

どういうことだ。何が起こった。何故自分はここにいる。

理解ができない。ピエロはどこだ。蠢いていたのは何だったのだ。

寝ていたベッドから降りようとする。しかしバランスを崩して床にへたりこんだ。

そのときようやく、部屋が橙色に染まっているのに気がついた。どこか既視感を覚える光景。

閉められたドアの向こうから声がする。



ー?ごはんだからおりてきなさい」



その瞬間、は今の状況を受け止めざるを得なくなった。

新たに浮かんだ様々な疑問に答えを出すことはできなかったが、周りの全てがの頭を埋め尽くした。

母親に返事をしようと開いた口は変に歪んで言葉を作らなかった。

床に手を付く。

大きな水滴がいくつもいくつも落ちてきた。


「…ぁ、…っ」


押し殺せなかった嗚咽が漏れる。何故泣くのか自分でも分からない。

悲しんでいるのか嬉しがっているのかすら判断できない。

ただ、不安でならなかった。

今まで支えていてくれた杖を失くしてしまったような感覚に堪えることができなかった。

一つの事実だけがの全てを支配している。





もう、自分はあの『世界』にはいないのだと。



それがたまらなく悲しく、苦しく、しかし母の声がとても嬉しくて。





はついに、声をあげた。















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2007.3.14

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