天球ディスターブ 22 何せ部屋の家具が極端に少ないので、大掃除は掃き掃除・拭き掃除あわせて2時間ほどで終わった。 埃だらけで黄ばんでいたシーツは捨てて、新しいものをアレックス――道具屋の主人に発注した。 ベッドのスプリングもかなりがたが来ていたようなのだが、こちらは発注するわけにもいかず(高価なのだ)、 仕方がないと紋章に頼った。 「もっと使ってもいいのに。それは君のものなんだし」 とピエロは言ったが、できることならば些細なことで頼りたくはないのだ。 ――自分はまだ、元の世界に戻るという可能性を捨て切れていないから。 頼りすぎてはいけない。 新品のベッドに腰掛け、ピエロは大きく伸びをする。 はピエロが持ってきたらしいティーポットと紅茶の葉に悪戦苦闘しつつ、彼の助言を受けて淹れていた。 「何とか片付いたねー」 「ドアを開けたら掃除中ってのには流石に驚いたんだけど」 「だって前に来た時も埃っぽかったけど、さらに酷くなってんだもん。掃除したくもなるって」 何とか淹れた紅茶を、これまた彼持参らしいカップに入れて渡す。 「あ、できたんだ。ありがとー」 「おいしくないかも。匂いがきつい気がする」 「うーん、こんなもんじゃないの?初めてなんだし。っていうか、あんまり香りは気にしないんだよね、僕」 「飲めればいいってやつ?」 「うん」 そう言ってピエロはカップを口に運ぶ。 も椅子に座ってそれに倣った。香りがやはりきつかった。 「それで、今日は何を伝えに来たかというと」 唐突にピエロが切り出した。 カップを持った手を下ろしてを見る。 「『これから、もっと辛くなる』ってこと」 は瞑目する。が、すぐに目を開けた。 ピエロの言葉を疑うわけではない。むしろ、彼の言葉は信頼に値するものだと思っている。 付き合いなんか笑えるほどに浅いけれども、何故だろう、信じたくなるのだ。彼は決して嘘をつかないと。 「漠然としすぎて、『どんな』辛いことが起きるのかがいまいちよく分からないけど。ありがとう、覚悟しとく」 「うん、それがいいかもしれない。でも、少しはまわりに頼ってみてよ?」 「そんなに頼ってない?」 「あんまりねー」 ピエロは立ち上がり、机にカップを置く。 「まあ、ネガティブになるのも何だし、散歩でもしてきたら?」 彼特有の、へラっとした笑顔で笑う。 は窓の外に目を向ける。空が茜に燃えていた。 「明日、城の散策をするよ。知らないところが多すぎるから」 言って、ピエロに視線を戻す。 ピエロはゆっくりと、いつもとは違う柔らかい笑みを浮かべた。 そして以前のようにの目に自分の手をかぶせる。――その手が離れた時、ピエロの姿は消えていた。 ティーカップもいつのまにか、の手から失せていた。 寝巻きに着替えてシーツも布団もないベッドに寝転がり、目を閉じた。 配給される夕食を取りに行くことが面倒くさかったし、 レストランに行くにしても、字が読めないので必然的にカイか誰かと一緒に行かねばならず、申し訳なかった。 起きてみると太陽はすでに真上に近いところまで来ていた。 一体何時間眠ったのだろうか、体のあちこちが軋んだ。 寝惚けた頭で着替えを済ませる。 寝巻きを除くと、の服は3着ある。 から貰ったものとこの世界に来た時に着ていた服と、部屋に備え付けてあった服。 備え付けの服は薄茶色のワンピースに濃い茶色の線が入ったもので、はっきり言って地味だ。 だが同じ服を何回も着るわけには行かず、はワンピースを手に取った。 「ていうか、お風呂…」 考えたとたんに背筋に悪寒が走り、慌てて風呂場(城の入り口付近にある)に駆け込んだ。 念入りに体を洗い、先程のワンピースに着替える。朝食などに構わず部屋に入り、後ろ手でドアを閉めた。 何てことだ。 しばらく自己嫌悪に陥り、ようやく立ち直り始めたところでは散歩に出かけることにした。 昼食は配給の味気ないものだった。 「本気でそろそろ字を覚えないとまずいな」 そう一人ごちて部屋を後にした。 防具屋、鍛冶屋、鑑定屋に交易所。 どれも元いた世界にはなかったもので――鍛冶屋は探せばあったかもしれないが――とても新鮮だった。 一通り品物に目を通し、次の場所に向かう。 石版がある玄関ホールや大広間は行ったことがあるので行かない。 ナルシー軍団はまだ仲間になっていないようで、テラスは工事中だった。 そして最後に、図書館。 蔵書の数は凄い。梯子を使わなければ上の段の本には手が届かない。 だが字が読めなかった。 それがとても居たたまれなくて、は早々に図書館を出た。 門のところが騒がしい。一体何なのだろうか。 小走りで駆け寄ると、人が集まっているのが分かった。大半が女性だ。 キャーだの格好いいーだの口々に叫んでいるのを見て、大体の予想がついてしまった。騎士団の到着だろう。 興味はあったがあの人並みの中に埋もれるのは勘弁願いたいと思ったので、治まるのを待とう。 そう思い、は歓声の塊を遠くから眺める。が、すぐに飽きてきた。 「……」 いまだ止まぬ歓声を見回して、は踵を返す。 諜報員の身の上だ、何かすることがあるかもしれない。 シュウの部屋へ歩く。 もう通い慣れた道だ。今更迷うことも無い。 は幾分軽快な足取りで曲がり角にさしかかった。 軽快な足取り――それがいけなかった。 前方不注意のお約束というのか、人にぶつかってしまったのだ。 「…!」 の体は後方に傾き、床と背中からこんにちはするのだと予想がついた。 いっぱいに見開いた目に飛び込んできたのは――赤。 「おっと」 いくら待っても衝撃は来ない。代わりに、手首に負担が掛かっているようで、鈍痛を感じた。 「失礼、レディ。前方不注意でしたね」 腰に大きな手が添えられ、斜めになっていた体が地面と垂直になる。 の目線で見えるのは赤い服と紫のマント。 上に目をやると、整った顔があった。直感で、カミューだと思った。 「…?どうしました?」 その声にやっと我に帰る。 「あ、いえ、こっちも不注意だったので、その、ええと、ごめんなさい」 「謝る必要はありませんよ。危うくレディに怪我をさせてしまうところだったのですから」 「どうしたんだ?カミュー」 カミューの後ろから声が聞こえ、見てみるとマイクロトフと思わしき男性がこちらに向かっていた。 「ああ、マイク。いやなに、少々失礼をしてしまってね」 「お前がか?珍しいな。…大丈夫でしたか?」 は突然話題を振られたことに困惑した。 「大丈夫です。助けていただきましたから」 「騎士として当然の務めですよ。あまり気になさらないで下さい」 カミューは微かに微笑んで言う。 「それでは、私達は行くところがありますので。本当にすみませんでした」 「いえ」 「お前がトラブルを呼ぶのか、お前の行くところにトラブルがあるのか、分からんな」 先程のことをシュウに話したら、そう言われた。 「個人的に面倒事は嫌い。ああ、話を戻していい?」 「何かやることはあるか、だったか」 「うん。まあ、一応というか、何というか。諜報員としてこの城においてもらっている身だから」 「ふむ。……お前はテレポートが出来たな。コントロールは出来るのか?」 「大分慣れてきたと思う。失敗しないとは言いきれないけど」 「力を使える限度は把握しているか?」 「魔力だけは人並み以上にあるらしいので」 シュウは顎に手を当てて考え込む。 少しして、机の引き出しから何枚かの書類らしきものを引っ張り出した。 「先程が戻ってな。…ラダトに王国軍が集結しているらしい。ミューズでも異変があったそうだ」 「ラダト?結構近い所にまで来たんだ」 「じきに攻めてくるだろう。兵士たちを鼓舞していたそうだからな」 シュウはに書類を差し出す。 目を通したが、読めなかった。それが顔に出ていたのか、シュウが眉をひそめるのが見えた。 「我々は王国軍を討つ。しかしあちらの情報も収集する必要がある。そこで、お前の出番というわけだ」 「スパイ?」 「ルルノイエにな」 「大胆だね」 「危なくなったらすぐにテレポートで戻って来い。いいな、すぐにだ」 「了解」 は書類をシュウに返す。結局一行も読めなかった。 「どんな情報を探ればいい?」 「ミューズに出没した金色の狼の情報、あとは…そうだな、些細なことでもいい、とにかく情報を集めろ」 頷いて踵を返す。 部屋を出る際に敬礼をしたら、シュウも無表情で敬礼をしてきたので、何故だか笑ってしまった。 廊下を自室へ向かって歩く。 曲がり角には殊更に気をつけた。 「あ、さん」 呼ばれて振り返ると、とナナミが立っていた。 は笑顔を作って手を振り、そして先程よりも早足で自室に向かう。 呼び止める声が聞こえた気がしないでもない。 吹き抜けの玄関ホールが見下ろせる廊下に出た。 ルックは相変わらず不機嫌そうな顔で石版を管理しており、珍しく隣にはがいる。 人々のざわめきは活気に満ちていて、とても戦争中とは思えない。 忙しく走り回る者、談笑を楽しむ者、皆に笑顔が溢れていて、嬉しくなる反面、自分の周りに壁を感じる。 とても大きくて分厚い壁。 振り返り、階段に向かおうとする。 しかし一歩を踏み出した途端、何かに躓いて――今度は誰も助けてくれなかった――前にこけた。 何が起こったのかと呆然とするに声が降り注ぐ。 「一体どうやって牢から抜け出したんだか。折角あいつらに閉じ込めてもらったのに」 「色仕掛けでもしたんじゃないのか?『お願〜い』とでも言ってさ」 「おーおー、よくやるよ。やだねぇ、品の無い小娘ってのは」 は目を見開く。そんな、まさか、――馬鹿な。 確実に波紋が広がっている。憎しみという名の、その水面では無力な浮草にすら及ばない。 驚くべきは声の中に女性のものが含まれていたことだ。 忍び笑いは次第に遠くなっていき、は屈辱と恥辱で涙が出そうになった。 一体、何故。どうしてこんなことに。 ほとばしる憤りを必死で宥めて、は紋章に意識を集中させる。 ルルノイエ――行ったことはないが、大丈夫だろうか。 しかしその疑問は、次の瞬間に消え失せる。 赤い絨毯の引かれた廊下、美しい絵の掛かった壁、大きく、それでいて美しい形をした窓。 ロックアックス城かとも思ったが、廊下の装飾があまりに綺麗すぎる。 とても「騎士」という風には見えなかった。 「成功かな」 自分がどこにいるのか分からないが。 とりあえずこの廊下では身を隠す場所も無いので、前へ進むことにする。 もちろん細心の注意は払っているつもりだ。 とはいっても、こんな直線の廊下だ。人が遠く離れたところにいたとしても見つかるに違いない。 そう考えると、つくづく自分は大きな危険を冒しているのだな、と失笑した。 幸運なことに誰にも会うことなく、は曲がり角にさしかかった。 騎士達に会えた、シュウが敬礼をしてくれた、無事に着けた――今日の自分は幸運なのかもしれない。 来る直前の出来事は無理やり頭の隅に追いやって。 そして、角を曲がったところで、は思わず声を上げた。 「あ」 「あ?」 「……」 頭の上から声がする。目の前に誰かの服が見える。目線をあげると赤い髪と銀色の髪。 猛将と知将。 猛将、シードが剣に手を伸ばす。 「メイドってわけじゃなさそうだな。……お前は誰だ?」 は後ずさる。冷や汗が背中を流れる。シードは余裕の笑みを浮かべて、間合いを詰めようとはしない。 知将、クルガンは腕組みをして傍観している。また後ずさる。後ずさる。間合いは詰められない。後ずさる。 そうして―― 「あ!待てこら!」 は逃走した。 命懸けの鬼ごっこが始まった。 --------------- 2004.7.10 2006.8.6加筆修正 back top next |