7. 眼帯をした少年は思っていたよりも背があるように見えた。 まあ、下に目をやると、エア・トレックを履いていたわけだけれども。 私より可愛いんでない?と思ってしまうくらいに顔は可愛かった。 「銭湯への道?」 「うん。僕、銭湯に行くの初めてで…」 「だったら一緒に行こう。私も行くところだし」 「え、いいの?」 「いいよ」 そう言うと彼はとても嬉しそうな表情をした。 名前を聞いていなかったことに気付き、私は声をかける。 「あ、よかったら名前教えて」 「亜紀人だよ。鰐島亜紀人。君の名前も教えて!」 「」 「ちゃんね!」 「うん。鰐島くん…いや、亜紀人くんのほうが呼びやすい」 名前を呼ぶと亜紀人くんはますます嬉しそうに笑う。 兄から「マイ・ペット」とか呼ばれているのでは、当然の反応かもしれないと思った。 銭湯は道を真っ直ぐに行ったつきあたりに立っている。 暗いし、真っ直ぐとは言っても少し距離があるので分からなかったのだろう。 「そういえば初めて来たんだっけ。使い方分かる?」 「…よく分かんない」 しゅん、となる姿は子犬を連想させた。 「じゃあ教えるよ。まず、靴とかエア・トレックはここ、玄関で脱いで靴箱に入れる」 銭湯の玄関で靴を脱ぎ、備え付けの鍵付き靴箱に靴を入れて鍵を抜く。 亜紀人くんのエア・トレックが入るか心配だったけれど、何とか入ったようで安心した。 「で、番台のおじさんにお金を払う」 中学生までは200円だ。 料金表を見て、亜紀人くんはポケットから財布を取り出して支払った。 「そしてお風呂場に直行。男湯はあっちだよ」 「ありがとう!…あ、ねえ、帰るとき、途中まで一緒に帰らない?」 その申し出に私は一瞬目を白黒させた。 喜びと焦りで騒ぐ胸中を必死で隠して返事をする。 「喜んで」 「じゃ、上がったら、えーと…どこで待ち合わせればいいかなあ…」 「マッサージチェアがたしか休憩室にあったから、そこは?」 「うん、分かった!」 そして私達は別れた。(こういう言い方をすると寂しいものがあるのだけれど) 勝手の慣れた浴場で体を洗っているときも湯船に使っているときも、心配だった。 眼帯、どうするんだろう。 お風呂からあがり、パックのウーロン茶を飲みながらマッサージチェアに座る。 足もマッサージしてくれる優れものだ。 私の場合、エア・トレックは多少足に負担をかける。 放っておいても大丈夫だとは思うけれど、万が一のためにこうして筋肉をほぐしているのだ。 「ちゃん、早いねー」 男湯から亜紀人くん出てくる。 タオルを頭にかぶせたままだ。髪が濡れている。 「別に早くはないと思うけど。それより、髪の毛濡れたままで外に出ると風邪ひくよ」 「え、そうなの?」 「そうだよ」 「んー…、いつもお風呂は寝る直前に入ってたから…」 「ああ、それで」 私は亜紀人くんに「少し待っていて」と伝えて女湯に戻り、ドライヤーを拝借して戻ってきた。 マッサージチェアのコンセントを引っこ抜き、そこにドライヤーのコンセントを差し込む。 「後ろ向いて」 「へ?いいよ、自分で…はできないかもしれないけど、風邪ひかないよ、多分」 「冬場の風邪って結構しつこいよ?」 「うー……、ごめんね」 亜紀人くんはそう言って後ろを向き、タオルを外した。 私はドライヤーの電源を入れて、彼の髪を乾かす。 サラサラな髪に少しだけ嫉妬した。(私の髪はここまでサラサラじゃない) 髪も乾かし終わり、私達は銭湯を出た。 他愛のない話(といっても大抵エア・トレックの話)をしながら、亜紀人くんが佇んでいた場所まで来る。 そこには先客がいた。 「あ、お兄ちゃん…」 金の髪を夜風になびかせたちょっとサイコ(美鞍葛馬・オニギリ談)な警察官。 その名は鰐島海人。 「よう。銭湯は楽しかったか?マイ・ペット」 人前でその呼称はどうなの警察官。 鰐島海人は私などアウト・オブ・眼中で亜紀人くんに喋りかける。 「どうしたの、お兄ちゃん。こんなとこまで来るなんて」 「ああ。これ渡しにな」 鰐島海人はズボンのポケットから鍵を取り出して亜紀人くんに渡す。 「一週間の出張が入った。…檻で大人しくしているんだぞ?」 檻。 その単語が出た途端、亜紀人くんの体がビク、と震えたのは私から見ても明らかだった。 一週間も彼は檻ですごすのだろうか。 というより、お風呂やトイレはどうするのだろうか。 …私は変なことを悩む傾向にあるらしい。 それはともかく、私はこの状況で何をするべきかも分からないまま、鰐島海人に声をかけた。 兄弟の問題に口を出すべきではないのだろうけれど。 「あの、すいません」 「ああ?おい亜紀人。何だコイツ」 「といいます。……ええと。あ、そうそう。亜紀人くんはうちに泊まる約束をしたんです」 「はあ?」 鰐島海人は訳が分からない、といった表情をする。 実を言うと私もよく分からない。 「一週間、亜紀人くんを預からせてはいただけないでしょうか」 「!」 私の言葉に亜紀人くんが驚いてこちらを見る。 ク、とくぐもった笑いを零し、鰐島海人も私を見た。 「……おまえ、俺の弟とどういう関係だ?」 「銭湯の関係です」 我ながら意味が分からない。 「その程度の関係で弟を預けるわけにはいかんな」 「お願いします」 なぜここまで必死になるのか自分でも分からなかったけれど、多分『檻』という響きが気に入らなかったのだ。 私の想像する檻は動物園の囲いだとか犬小屋だとか、そういったものでしかない。 だが、そのどれもに私は言い感情を抱いていない。 窮屈すぎると思うのだ。 私は最終手段に出た。 鰐島海人にしか聞こえないくらいの声で言う。 「食費・銭湯代・洋服代・その他諸々こちら持ちで」 「許可しよう」 早! 一週間後にこの電灯の下で待ち合わせをする、ということで話を付けて鰐島海人は帰っていった。 私達は黙り込む。 亜紀人くんが先に話しかけた。 「…ごめんね」 「何で?」 「迷惑…かけちゃって…」 彼が本当に申し訳なさそうにするものだから、罪悪感でチリチリと胸が痛んだ。 「誤解のないように言っておくけど、私は亜紀人くんを助けようとしたんじゃないよ」 「え?」 「『檻』っていうのが何だか気に入らなかったから。自己満足だと思ってくれたらいい」 「でも…!」 私は罪悪感を振り切るように笑う。 本当に、彼は子犬のようだ。 「私がそうしたかったから、しただけ。嫌なら断ってくれて構わないよ」 「そんな!嫌なんかじゃないよ」 「ありがとう。亜紀人くんが気にする必要はないから。帰ろう?」 「……っ」 亜紀人くんは一瞬だけ泣きそうな顔をしたあと、私の手を握った。 驚いたけれど、俯いた彼が本当に泣いているように見えたので、私も握り返した。 エア・トレックを履いている亜紀人くんの身長は私と同じくらいだった。 テクテクと家への道を辿りながら、私は思い出した。 「あ、ディスカウントストアに寄っていい?」 「いいけど…?」 「炊飯器買わないと」 「え」 ちなみに、彼が銭湯に来た理由は「お兄ちゃんがお風呂で暴れて壊したから」らしい。 どんな暴れ方をしたのだろう。 炊飯器(小さめのもの)と米(2kg)と食料品を買い込んで、離れに戻る。 「猿でもできる料理」という本も買った。シリーズなのだろうか、これは。 炊飯器は亜紀人くんが、米は私が持ち、その他のものは半分に分けて持った。 「ここがちゃんの家?」 「何にもなくて驚くと思うよ」 苦笑して、鍵を開ける。 ――が。 「開いてる…?」 嫌な予感がする。 私は勢いよく戸を開け、電気のスイッチがあるところまで走って明かりをつけた。 知らない男の人が包丁を持って震えていた。 無印のダンボール棚が横倒しになって服が散乱している。 小さなガラステーブルも倒れている。 「不法侵入者?」 私が呟くと、それをきっかけのように男は背後の大窓を開けて逃げ出した。 手に私のエア・トレックを持って。 「あ、エア・トレック泥棒か」 悠長に納得している暇はない。 私は駆け出して窓から出て男を追う。 相手もエア・トレックをはいていないので互角、と言いたいところだが、果たして体力が持つか。 暗闇の中で男を追うのは難しい。 今はまだ何とか見えているけれど、体力が尽きる前に追いつかなければならない。 全速力で走っているため、距離はだんだんと近づいてきている。 力と身の軽さに加え、どうやら体力も増加していたようで、ありがたく思う。 これでエア・トレックの才能があれば完璧なのだけれど。 「返して!」 走りながら叫ぶ。あと数メートル。 男は答えない。けれど、男の走るスピードがだんだん遅くなっていることに気が付く。 あと少し。 あと少しで――袋小路だ。 男は行き止まりにうろたえる。 私は足を止め、男に近づく。 「エア・トレック、返して」 そこで、私のエア・トレックにはプレミアがついているとスカルセイダースの男が言っていたことを思い出した。 目の前の男はキョロキョロと辺りを見て逃げ道を捜す。 そして逃げ道がないと分かると、手に持った包丁を振りかざして私に襲い掛かった。 私は後ろに飛び退く。 それでも男が向かってきたので、思い切り地面を蹴ってジャンプした。 周りの家の屋根の高さを越えた。 空中で一回転という技を生まれて初めて実践し、着地した。身が軽いため、衝撃はあまりない。 一体どこまで人間離れしているのだか。 男はとても驚いている様子だったけれど、気を持ち直すと手に持った包丁をこちらに投げつけてきた。 ――は? 包丁が飛んでくる。 その光景があまりにも現実離れしていて、けれどもそれは現実で、私は動くことを忘れた。 ガッ!!! 目の前が暗くなる。 包丁が私に刺さったのだろうか。けれど痛みはない。 「魅せてやるよ、とびきりの地獄を」 声が聞こえた。 直後、ギャン、とかズガガ、とか、工事現場のような音が響き、そして止んだ。 倒れた男の上に亜紀人くんが乗っている。 いや、違う。あれは亜紀人くんではない。 「雑魚が。エア・トレックも使えねーヤツがいきがってんじゃねえよ、ファック!」 少年は男を蹴る。 男の姿は――というより男の服は、見るも無残にボロボロになっていた。 血も少し出ているが、擦り傷程度だ。少年が手加減したのだろうか。 側におちているシンプルなエア・トレック――私のだ――を拾い上げ、少年が私のほうに歩いてきた。 左目に眼帯をしている。 「もう少し家にマシな鍵つけとけよ」 「…あはは。面目ない」 少年からエア・トレックを受け取り、苦笑する。 「亜紀人くんじゃないね。名前は?」 分かっているのだけれど。 「――咢」 少年――咢は答える。 「亜紀人くんに咢くん、か」 「君付けすんな。何か気にくわねえ。呼び捨てでいい」 「うん」 私は表向き、この世界の人々に関する知識は何も持たないように見せかけなければならない。 異世界から来た、なんて誰が信じるだろうか。 「二重人格?」 「まーな。ったく亜紀人のヤツ、つまんねーことで代わりやがって」 「でも助かったよ。ありがとう」 そばに壊れた包丁が落ちている。 防いでくれたのだろう。 「まあ、一時とはいえ檻から出られたからな。これで貸し借りは無しだ」 帰り道が楽なように、私はエア・トレックを履く。 シンプルなだけに、さして時間をかけずに履き終わって立ち上がると、咢が言った。 「さて。一つ聞きたいことがある」 「なに?」 「、おまえチームは持ってんのか?」 私も呼び捨てなのか。 「持ってないけど」 「…まあいい」 咢は不敵に笑む。 「あの身のこなしはただごとじゃない」 月明かりが彼に降り注ぐ。 「――戦ろうぜ」 --------------- 咢の口調って難しい。 2004.8.10 back top next |