15. 結局家に帰ったのは午前3時を回った頃で(携帯で確認)、それから銭湯に行けるはずもなく、その夜は寝た。 明日の朝一番で銭湯に行こうと思い、着替えやらシャンプーやらリンスやらタオルやらを用意した。 マイクロビーズのベッドに埋もれて羽毛布団を顔が半分見えなくなるくらいまで深く被り、 おやすみなさいと返事を返さない部屋に向かって呼びかけた。 ベッドの上に上体を起こし、呆然とカーテンから漏れる光を見つめる。 今の私を色であらわすなら、きっと灰色だ。燃え尽きてるんだ。それこそかのボクサーのように真っ白に。 いや、燃え尽きてはいないのか。ではなんだ。脱力だ。 鮮やかなオレンジ色の光がカーテン越しに部屋に光を運んでくる。 いわゆる夕陽である。 「………」 寝起きハイテンションであるはずもなく、掠れて痛い喉のために声を発することもできず、 私はただ、そこに在り、カーテンの隙間から差し込む光に照らされた部屋の床を眺めていた。 昨日の夜に用意した、銭湯に行くための用意が所在なさげに床に転がっている。 もぞもぞとベッドから抜け出して流し台で顔を洗い、Tシャツとジーパンに着替えるとそれらを持って外に出た。 もちろんエア・トレックを履いて。 ちゃん、今日は眠そうねえ、と番台に座る恰幅のいいおばさんが話しかけてくる。 寝坊したんですよと曖昧に笑って料金を支払った。 「昨日来なかったからちょっと心配してたんだよ」 「家に帰ったのが夜中の3時でしたから」 「あんまり遅くなるといけないよ。女の子なんだし、少しは気をつけなさいね」 「アハハ、善処します」 半目で、すっかり定位置となった隅のロッカーに歩いていく。 金属のロッカーに額をあてる。 冷たい温度が心地よかった。 ゆったりとお湯につかり、昨日と今日の疲れ…といっても今日は寝ていただけだけれど。まあ、それを落とす。 常連のおばさん達とはちょっとした顔見知りになっているので、たまに世間話をしたりもする。 あがった後はマッサージチェアで足と肩をほぐす。およそ女子中学生のやることじゃない。 よく、大人っぽいとか言われるけれど、それは実年齢が実年齢だからしようがないと思っている。 「おや、帰るのかい?」 「はい。いいお湯でした」 「そりゃ良かった。…何だか顔が赤いね。熱でもあるんじゃないの?」 「別に普通だと思いますけど。帰ったら熱、はかっておきます」 「熱があったら夜の9時以降に来なさいよ。その時間だったらほかにお客さんもいないし」 「いいんですか?」 「いいよ」 「ありがとうございます」 その前に体温計を買いに行かなきゃいけないなと苦笑して、私は銭湯を出た。 薬局は少し遠い。 エア・トレックを滑るように走らせながら、時々思考がぼやけるのを感じた。 商店街のなかの薬局で体温計と、一応風邪薬や頭痛薬なんかも買う。 だんだんと火照ってきた体に焦りながら、少しでも冷ましておこうと遠回りをして帰る。 もう、桜が咲いている。 家の位置を忘れないようにしながら歩いていくと、小高いところにある野原に、一本の大きな桜を見つけた。 まともに考える頭はあまり残っておらず、それでも一目それを見たくて私は道を上がっていく。 ドカ、だとかバキ、だとかいう音が聞こえてきた。 見ればニット帽のカズが喧嘩をしている。これはアレか。ガンズのOB達との喧嘩か。 普段、弱い弱いと言われているカズだけれど、次々と殴り倒していく様子を見るとそう弱いわけでもないらしい。 全員を倒し終わったところで、カズはよろけて桜の木にもたれかかった。 「おつかれー」 「!?……なんだ、じゃねーか。どうしたんだよ、今日。中山と安達が心配してたぜ」 「弥生と絵美里が?いや、実は寝過ごして。起きたの5時くらいなんだよね」 「マジで?つーかお前、風邪引いたんじゃねえの?顔赤いぜ」 まさかカズにまで言われるとは思っていなかった。 思わず頬に手を当てる。冷たい手がこれまた心地いい。 「…寝過ごしたのって風邪引いてたからだったりして」 「そうかもな。とにかく今日は早く帰って寝たほうが絶対いいって」 「もう少し桜を眺めたら帰るよ」 とはいっても、足元にOBの強面たちが転がっている状況なので、ロマンチックな気分にはなれない。 桜の木のそばに歩いていき、幹に背をもたれさせて上を眺めた。 カズがふと私の足元に目をやって驚く。 「エア・トレックやってんのか」 「西中との喧嘩のときに言ったと思うけど。うん、まあね」 「じゃ、俺たちのチーム入らねえ?人数は多いほうが良いっていうし」 私は目を見開く。まさか誘われるとは思ってもみなかった。 驚くと同時に頭が締め付けられる。予想外の痛みに思わず額を手で強く押さえる。 ヤバい。 「…それもいいかもしれないな」 「だろ?今日休んだから知らねえだろうけど、牙の王の鰐島ってやつが転入してきてさ。 信頼はできねえけど、そいつも同じチームだから大丈夫だと思うぜ。お前に危害が及ぶことは無ぇよ」 カズが笑顔で言う。チームを作るということで少々興奮しているのかもしれない。 額に汗が滲む。 急に足の力が抜け、ガクンと草むらの中に倒れこんだ。両手と膝で体を支える。 「どうしたんだ!?」 「悪化したかも…」 「な!?お、おい、大丈夫か!?」 「あんまり大丈夫じゃない…」 痛みに目が霞んでくる。 仕方が無い。ここで休んでいこう。 「あー、カズ君。私はここで少し休んでいくので、できればそこに転がっているお兄さん達をどこかにやって」 「?」 「いくらなんでも、この状況で休もうとは思わないからね」 目を瞑る。痛みが寝ることを妨げる。 その代わり、意識を失うという形で休息はやってくるようだった。 「じゃあ、そういうことで」 草むらに沈んだ。 草の匂いがしない。 体の下が固くない。背中の下は柔らかい。 目を開けた。天井に扇風機が見えた。 「あ、起きたか?」 ニット帽を被っていないカズが覗き込んでくる。絵美里にばれたら殺されかれないな、と場違いなことを思った。 ここはどこだ。 「俺の家だよ」 まるで私の心を読んだかのごとく、カズが言った。 「あそこに寝かしとくのもヤバイと思って、とりあえず連れてきた。ワリぃ、お前の家知らねえんだ」 「いや、ありがとう。ごめん、重くて」 「や、全然?」 「気を使わなくて良いよ。あ、じゃあ帰る。荷物どこ?」 「休んでいけよ。あんまり動かないほうがいいんじゃね?」 心配そうに言ってくれる。 その優しさに顔が少し緩んだ。 「頭痛が少し止んでるから、今のうちに帰っておかないと」 「そっか、分かった。でも薬は飲んでいけよ。水、用意したから」 「ありがとう」 サイドテーブルに置かれたガラスのコップの横に、先程の薬局の袋が置かれている。 その中から頭痛薬を取り出して飲んだ。 「ここってカズの部屋?」 「そうだよ。あ、エア・トレックここにあるけど」 「それじゃあ窓からおいとましますか。本当にありがとう」 「窓から?マジかよ。危ねーって」 大丈夫大丈夫、と言いながら窓を開けて、窓枠に足をかけた。 屋根の上を行けば家も見つかるだろう。 「また明日」 そう言って、跳んだ。 カズがどんな顔をしてそれを見ていたかなんて知らない。 「38度7分…」 何とか家を見つけたときにはすでに9時を回っていて、私の体力も限界にきていた。 昨日買った野菜が冷蔵庫の中で調理されるのを待っているけれど、この時間だし、この熱だ。 明日学校に行って弥生と絵美里に会って心配かけたことを謝りたいし、今日は寝ることにしよう。 パジャマに着替える余裕もなく、流し台の水で風邪薬を飲んでベッドに倒れこんだ。 原因は分かっている。 「夜3時までってのは止めよう…」 身から出た錆は始末におえない。 翌朝、6時に起床。この2日間の睡眠時間は計算したくない。 風邪薬のおかげで大分楽になった。まだ頭が痛むけれど頭痛薬を飲めば大丈夫だろう。 冷蔵庫を開ける。大根と春菊と白菜、しいたけ、鶏肉。弁当は作れそうもない。購買でパンを買おう。 とにかく朝ごはんをと思い、大根としいたけと鶏肉をコショウで炒めた。余った材料を水炊きに使えば良い。 米を買い忘れたのが少し辛い。 「何か、寂しい…というより、切ない…」 上を向いて目頭を押さえた。 これは涙じゃない。涙じゃないんだ……目から流れる汗なんだ…… 制服に着替えてエア・トレックを履き、戸締りを確認して鍵をかけた。 教室に行くと、絵美里と弥生がいた。 「あ、、おはよ!昨日どしたの?すっごい心配したんだから!」 「おはよう。寝過ごしちゃって。起きたの5時だったから」 「珍しいのね。体調が悪かったりした?」 「うん、風邪。今も少し頭痛いから、これから保健室行こうと思って」 絵美里が呆れたようにため息をついた。 「ってホント真面目よねー…こりゃ学年トップにもなるわ」 「そんなことないって。勉強が好きなわけじゃないし」 「うっそ、マジで?勉強大好きっ子かと思ってた」 「あはは、違う違う。むしろその逆。今は受験勉強の余韻が残ってるだけで――…」 そこまで言って、ハッと口を噤む。 弥生が怪訝そうにたずねてきた。 「受験?」 「あ、いや…ええと、その。ほら、アレだよ!英検!」 「英検って余韻が残るくらい勉強するもの?」 「あー、こ、今回は少し勉強しすぎたかなって自分でも思ってるから。ところで二人は何でこんな時間に?」 二人はハッとした表情をした。話は逸らせたようだ。 「やっばい!私ら今から部活なの!」 「もー、弥生がジャージ教室に忘れたりするからー!」 「ごめんって!あ、じゃあね、!後で保健室にお見舞い行くわ!」 「ありがと。いってらっしゃーい」 パタパタと駆けていく二人を見送って、やはり陸上部は足が速いなと感嘆の息を漏らした。 鞄を机の上に置き、顎に手を当てる。 さて、保健室の先生はまだ来ていないだろうから職員室に鍵を取りに行くわけだけれど、誰かいるだろうか? オリハラ先生ならこの時間でもいるかもしれない。まあ、いなかったら他の先生に頼むだけだ。 時計を見ると、もうすぐ7時になるところだった。 「顔色が悪いな。早退しなくて大丈夫なのか?」 「最近休みがちだったので、少しでも授業に追いついておかないといけませんし。 数学とか英語とか理科や国語はどうにかなっても、社会だけはどうにもなりませんから」 社会の授業も基本的には教科書を覚えればいい内容なのだけれど、 その学校の教師教師で注目する内容が違う。それは定期テストに直結する。サボるわけにはいかないのだ。 オリハラ先生は、ふむ、と感心したように頷いた。 「他の生徒もお前くらい真面目であってほしいものだな」 「真面目じゃないですよ。ただ、点取り虫なだけです」 「それでも向上心がないよりはマシだろう」 「うーん…」 まあとにかくお前は休めと言って、オリハラ先生は職員室のキーボックスの中から保健室の鍵を取り出した。 礼を言って職員室を出る。 「実際、学校に来たのは勉強のためじゃなくて、会いたかったからだけなんだけどね」 真面目というキャラを売っておけば、のちのち都合の良いこともあるだろう。 微かに口角を上げて、まだ見ぬ彼を想った。恋云々のことは認め、すでに諦めモードである。 そう言えばブルズとのバトル以来、一度も会っていないのだった。 カチャ、と音を立てて鍵が開く。 「休んでいます」という書置きを机の上において、ベッドに寝転んでカーテンで周りを覆った。 朝に頭痛薬を飲んできたおかげでそれほど痛くはない。 ホームルームが始まる前に起きられるだろうか。 どんな顔をして会えば良いのか分からないのが本音だけれど、会いたいのもまた本音だった。 世界が浮上する。 目を開けると、今日も絶好調な下方ツインテールの弥生が見えた。 「…今、何時?」 「3時間目が終わったところ。アンタ本当に大丈夫?早退したほうが良いんじゃないの?」 「いや、気分は悪くないし、散々眠ったおかげで頭痛は引いたし。午後の授業は出るよ」 「あんまり無理しちゃダメだからね。お昼休み、私らは屋上でご飯食べてるから、余裕あったら来なよ」 「うん、ありがとう」 「じゃあ私は戻るわ。何かあったらすぐに先生に言うこと。いい?」 私は苦笑でそれに答える。弥生は満足そうに笑ってカーテンの外に出た。 絵美里は保健室の先生と話しているようだ。時折笑い声が聞こえてきた。 「昼休みまで、もう一眠りするかな」 安らかな気持ちで目を閉じた。 目を覚ましたのは、丁度昼休みが始まって5分後の事だった。12時45分。 のっそりと起き上がって制服の皺をなおし(あまり効果はなかったが)、保健室の先生に礼を言おうとする。 しかし先生は出払っていて、私はまた書置きを残して保健室を出た。 購買でパンを買おうと思っていたけれど食欲があまりないのでゼリーとジュースだけ買った。 屋上へと続く階段を上る。(大人の階段を上るわけではない。シンデレラではないのだから) 彼らが、彼がいることを少しだけ期待している。 しかしいつの時代でも、期待とは裏切られるものである。 「あ、、こっちこっちー!」 「復活おめでとー」 「ありがと、弥生。ねえ、絵美里……転校生は?」 「いないよ?どこいったんだろ。ま、いいじゃん。ご飯食べよーよ」 絵美里が指差すほうでイッキとカズとオニギリとブッチャと林檎がご飯を食べている。 咢と亜紀人はいない。 待て。 「すれ違いすぎだろう、これは…」 ちょっと本気で泣きたくなった瞬間だった。 「そうそう、今度の日曜日空けておいてね。北高にいった先輩がメットくれるらしいから取りに行くのよ」 弥生の言葉に目を輝かせる。 もしかしたらその日に会えるかもしれない。 明日は土曜日で学校がないので会えない。 同じ長屋に住んでいるのだから会いに行けばいいと分かっているけれど、どうもそれは気が進まない。 「分かった」 「待ち合わせはここの校門ね」 「うん」 実はこのとき、私が同じクラスだと知った咢(亜紀人は強制的に封印されたらしい)が、 心配して保健室に行き見事にすれ違い、保健委員の女生徒たちの歓声の的となっていたらしいことと、 来る日曜日、安売りに負けて私が途中離脱してしまい結局会えなかったことは、 …素晴らしく苦い思い出だったりする。 明日は卒業式だけれど、保護者の手続きやら何やらでゴタゴタしてしまい、 だから未だに会えていない。 --------------- 「大人の階段のぼる…」は「タッチ」や「H2」と並ぶあだち充の名作、「みゆき」のエンディングです。 サーベルタイガーは1話くらいで爽やかに流しましょうかね。(と言うかこの話だけで睡眠時間27時間強…!) 2005.1.23 back top next |