二年四ヶ月 前編



「――と、いうわけで、俺と付き合ってもらえますか」

 唐突に告げられた言葉に、間抜けな感嘆詞を漏らさなかったことは快挙である――。
 ともすれば逃避しそうになる思考を何とか引き止めて、が思ったことはしかし、どう考えても逃げるためのものであった。引き止めた意味がない。
 表面上は無表情にそれだけのことを考えたは、動きたくないと訴える首を無理やり動かして、己の思考能力および身体運動能力を著しく下げた元凶を見やった。

 時は初夏。セミは未だ鳴き声を潜め、けれど降り注ぐ陽の光は確実に強さを増してきているころ。
 立海大学付属中学校に設置されたテニスコートのごく近く、景観と日除けのために数本だけ植えられた木の陰で、は告白されたのだった。

「…………」
「そんなに黙られると俺、へこみそうなんだけどな。わりと本気で」
「……じゃあ、遠慮なく」
「……できれば俺が落ち込まない程度に遠慮してください」

 注文の多い男だ、とは怪訝そうに目を細めた。

「まず、何故最初から『というわけで』になるのか、意味が分かりません。説明を省くにも程がありますよ。それから、付き合うという部分についての返答ですが……」
「……! うん、どう、かな?」

 期待に目を輝かせる相手の姿を、は一瞬よぎった罪悪感を振り切るように真っ直ぐ見据えた。

「お気持ちは大変嬉しく思います。誰かに好かれるというのは、それだけで喜べるものです。
ですが私は、あなたのことを名前しか知りません。ええと――」

 幸村精市くん、と呼べば、いくらか消沈した声色で、はい、と返ってきた。

「ありがとう。でも、ごめんなさい。よく知らない人とは付き合えません」
「…………うん」

 去っていく少年の後ろ姿を見つめながら、は深い溜息をついた。――知らないなんて、嘘だ。
 本当は、ずっと前から知っていた。ずっと、ずっと、見てきた。
 得体のしれない衝動が、じわりじわりと心臓を蝕み、肋骨を軋ませ、やがて首を絞める。

「…………」

 ――きっとこうすることが正解なのだ。そう無理やり自分を納得させ、は踵を返した。





 がその少年を始めてみたのは、入学式だった。といっても自分の入学式ではなく、彼の入学式だ。
 そのときのは中学二年生で、彼――件の幸村精市は、入学したての中学一年生だった。

 一年生の時分から生徒会に所属していたは、入学式に際して細々とした雑務をこなしていた。受付は教師と書記が、式の進行は副会長が、在校生代表挨拶は生徒会長が行うことになっている。花形の仕事は全て教師か三年生のものだった。エスカレーター式であるが故か、三年生は十二月と比較的遅い時期に引退する。そのため、下級生に振り分けられる仕事が少ないのである。
 だから、生徒会の主たる役職は実質三年生のものだった。二年生であるは役職名で言えば庶務だが、内実は雑用係だ。人手の足りないところや資料作りなどの手伝いによく駆り出される存在である。
 入学式に際してもそれは変わらず、朝のこの時間は受付で混雑回避用の助っ人をこなし、式の最中は裏方として音響の調節やマイク運びを行い、そのあとは片付けに回ることになっていた。
 慌しく動き回るに、同じく受付の教師が声を掛けた。

、新入生につけるコサージュが足りないんだが……」
「……数に余裕をもって作ったはずなのですが」

 新入生一人一人の胸に飾られるコサージュは、昨日二年生女子が総出で作ったものである。生花を使用するので花の発注には気を使った。作成前と作成後、そして今朝もチェックしたのだ。足りないはずはなかった。

「悪い、付けるときにいくつか失敗したんだ」
「余分に作っておいた分もでしょうか」
「……すまん」

 は箱に入れられたコサージュの残数を見た。ざっと見て、あと二クラス分はあるだろう。名簿を見る限り残りの新入生も大体そのくらいの数である。失敗したというコサージュの残骸はおよそ二十個。もともと余分に作っていたことを考えると、追加で十個程度用意すれば、ギリギリ足りるだろうと思われた。

「花屋に電話するか?」

 教師とともに受付を担っている生徒会書記が提案する。は暫し考え、首を振った。

「式の開始まであまり時間がありません。そうですね……園芸部に掛け合います。屋上庭園の花を使えば、他のコサージュに見劣りしないはずです」
「ああ、なるほど」
「少々不在にしますが構いませんか」
「大丈夫だ。行ってきてくれ」

 では、言っては校内と体育館を繋ぐ回廊に入る。もともと上履きを履いているので、そのままパタパタと軽い足音を立てながら廊下を走り、階段を一気に駆け上がって、屋上の扉を開いた。
 身長を越えるほどの高いフェンスに囲まれた屋上である。ベンチがいくつか点在し、常は在校生の憩いの場となっている一角に、園芸部および美化委員の管理する花壇がある。いわゆる共同花壇だが、美化委員は校内の清掃などの仕事も担っているため手が回らないらしく、主に手入れをしているのは園芸部だ。活動熱心な園芸部は、入学式の日だというにも関わらず、数人の部員が土をいじっていた。

 花壇に咲いた色とりどりの花々にはほっと胸をなでおろし、園芸部員に声を掛ける。
 事情を説明し、花の使用について快諾を得たは、必要なだけの花を分けてもらうとベンチに腰掛けた。持参した道具で手早くコサージュを作り上げると袋に入れ、立ち上がって園芸部員に改めて礼を言うと屋上を後にした。

(八時十分……開式は八時半だから何とか間に合うか)

 とはいえ急ぐに越したことはない。屋上からの階段を真っ直ぐに下りた場所は体育館とは真逆に位置しているのだ。逡巡の後、は上履きのまま外に出ることにした。校舎内を走るより、外を斜めに突っ切る方が早いと考えたのだ。

 段差を二、三段ずつ飛び越えながら一階まで降りると、近くの出口から校舎の外に出る。春一番の名残か、少し強い風が吹き、散った桜がの視界を覆う。髪の毛を押さえ、コサージュの入ったビニール袋を確かめると、一旦止まってしまった足を再び動かそうとして――息を呑んだ。

 桜の下に、驚くほど整った容貌の少年が立っていた。胸元にコサージュをつけているので、新入生の一人なのだろう。
 光の加減か、肌は驚くほど白い。紺色がかったやわらかそうな黒髪はゆるいウェーブを描いており、吹きつける風に踊っている。細身の体躯だが華奢な印象は受けず、真っ直ぐな姿勢が凛々しさを感じさせる。
 腕を組み、横を向いている――いや、こちらが少年の横側にいるのだろう――彼の表情は、どこか険しい。思わずその視線の先を辿り、は盛大に顔をしかめた。

(……テニスコート)

 ということは、少年は十中八九テニスに興味があるのだろう。苦々しい感情がの胸に去来する。
 けれども少年の横顔に視線を戻すと、再び縫いとめられたかのように目を逸らすことが出来なくなった。
 「美しい」という言葉はあまりに安直過ぎた。安直だけれど――

(でも、綺麗だ)

 桜吹雪の中、凛と立って一点を見つめる姿に見惚れる。しかし、理性がコサージュの存在を訴えた。
 は衝動を抑え、ゆっくりと向きを変える。そしてそのまま、振り返らずに走り出した。


 これが、が初めて『彼』を見た出来事である。



 二度目の邂逅はその年の九月、夏休みが開けた後の二学期初日のことであった。
 始業式の途中で教頭が発した一言で、体育館はざわめきにのまれた。

『先日行われた中学テニスの全国大会で、我が立海中の男子テニス部が見事優勝を果たしました』

 まるでその言葉を合図にしたかのように壇上脇から現れた男子テニス部レギュラー陣の姿に、賞賛とよくわからない黄色い悲鳴が上がる。思わず耳を塞いだは、整列した生徒の中に知った人影を見つけ、目を丸くした。教頭が一人一人紹介していく。

『最後に、一年生ながら見事レギュラー入りを果たし、大会中も全勝の快挙を成し遂げた、幸村精市君』
『はい』

(――ああ、こんな声をしているのか。)

 レギュラーになったのか、とか、全勝したのか、とか。そういった、真っ先に驚くべき点を全て押し退けて、がまず思ったのは、そのことであった。
 まるでざわめきが全て消え去ったかのように、の耳は少年の――幸村精市の声しか認識しない。
 心地よい。快(こころよ)い。――けれど。

「……大丈夫?」

 すぐ後ろに座っている友人が声を掛けてくる。

「大丈夫だよ」
「本当に?」
「うん」

 友人は少し身を乗り出しての表情をうかがうと、溜息をついた。

「うそ。そんな険しい顔して何言ってんの。見た目悪くないのに台無しよ、この、女ゴルゴが」
「…………」

 あんまりだ、とは笑った。

「ねえ、ゴルゴ」
「なに?」
「本当に、テニスが嫌いなのね」

 嘆息まじりに呟かれた言葉に思わず瞳を伏せる。もう、彼の声は聞こえない。

「――うん」

 ああ、テニス部なんて早く壇上から降りればいいのに。過剰すぎる声援がなくなってしまえばいいのに。
 の考えに呼応するかのようにテニス部の紹介は終わり、そして、幸村精市は壇上から消えた。



 がテニスを嫌いになった理由は単純だ。それは、自身もテニスをしていたという事実に起因する。
 小学生の、実に六年間をテニスに捧げていた――だが、やがて限界を知ってしまう。
 六年生になり、同級生に負け、五年生に敗北し、四年生に敵わなかった所で、は己の才能について実に明確に理解した。努力を怠ったわけではない。誰よりも練習してきたという自負もあった。それら全てを出しきった先にあったのが敗北だったのだ。その絶望感は、幼かったにとって強すぎるものだった。あらゆる負の感情に飲み込まれ、見かねた母親の勧めもあってラケットを手放すことにしたのである。
 だから、はテニスが嫌いだ。ラケットを持つことも、試合をすることも、テニスプレイヤーも、関わるもの全てが。それは泥水よりも苦い過去を思い出させ、容赦なく精神を切り裂いていく。
 結局のところそれはただの身勝手で、かつ自己中心的なものなのだと分かってはいる。だから決して言葉にしないし、人前では態度や表情にも出さないよう気を付けている。小学校からの友人が知るのみだ。
 けれど――確実に、心に巻きついて離れない感情であるのもまた、確かだった。



 始業式の一件以降、はよく幸村精市の姿を見つけては、しばらく見続けるようになった。彼は比較的どこにでも出現した。教室の窓から見下ろす中庭や屋上庭園の花壇の前、はたまた体育祭の騎馬戦でただ一人無敗を貫いた勇姿であったり、場所はさまざまであったが、一番多かったのはやはり、テニスコートだった。
 テニスコートは生徒会室がある棟に近い位置に設置されている。生徒会役員であるがその棟に行くのは至極当然のことで、畢竟、テニスコートの近くを通ることもままあるし、生徒会室の窓からも見える。

 常ならば視界の端にも入れず通り過ぎるだけのその場所を認識するようになったのは、幸村精市というにとって一種特別な存在がいるからである。表面上は無表情かつ無感動に歩いていくの姿は、誰の目にも留まらない。そうしてたどり着いた生徒会室の窓から、はテニスコートを見下ろし、盛大に嫌そうな表情をしたあとに幸村精市を探すのである。反吐が出そうなほどの不快感に飲まれながらも一向に止まることのない不毛な行為に、会計の女生徒が苦言を呈した。

「あなた、そのうちストレス過多になるわよ」
「申し訳ありません、ご不快にさせましたか」
「そんなことはないけれど……そんなに気になるの? レギュラーの一年生」
「そう、なんでしょうか。……そうかもしれませんね」

 会計は不思議そうに首を傾げた。

「好きなんじゃないの?」
「……? 恋愛感情を可能性に挙げたことはありません。ただ、綺麗だと思ったので。テニス以外」
「ファンってこと?」
「考えたことがありませんでした」

 すみません、と返し、またテニスコートを見る。試合を終えたのか幸村精市の姿はすでになく、強い吐き気を覚えるのみだった。これ以上はただの自虐行為である。
観察の後に吐き気を覚えるくらいならば、そろそろこの行為も止めておいたほうがいいかもしれない――そんなことを考えながら、はカーテンを引いた。



 そうしてがテニスコートを見なくなり、同時に幸村精市の姿を追うこともやめてから数ヶ月。季節は再び春を向かえ、は最高学年に進級し、生徒会副会長に就任した。
 新学年・新学期が始まってから暫く経ち、新たな委員会役員が決定した四月末、生徒会室の隣にある会議室に、生徒会役員と各委員会の委員長・副委員長が集まっていた。
 今年度の主な目標と年間スケジュールの確認を済ませるだけの簡単な会議で、終わった後は各々談笑や打ち合わせを行いながら解散していく。
 これから教師を交えての会議に出席するという生徒会長を見送り、は余ったプリントや書記から渡された議事録を整理していく。気が付けば室内はすでにガランとしていた。
そんな静寂の空間に異物を見つけ、は思わず訝しんで声を掛けた。

「何か問題点でもありましたか。会議はすでに終わっていますが」
「えっ! あ、いや、いいえ、そうではないんです、けど……」

 慌てたように顔を上げた異物を正面から見て、は息を呑む。相変わらず華奢な印象を与える白い肌に柔らかい髪、ピンと伸ばされた背筋が異様なほど似合う人物、幸村精市である。

「あの……」

 幸村精市はおずおずとに声をかける。

「なにか」
「俺、美化委員なんですが……屋上庭園の手入れって、してもいいんですか? 園芸部には入ってないんですけど……」

 は首を傾げ、質問に質問を返した。

「もともとあれは、園芸部と美化委員の共同花壇のはずですが、違いましたか」
「え、そうなんですか? 委員長は『園芸部のものだから手出しするな』と……」
「……美化委員が管理を怠りがちだというのが実情ですね。園芸部もその点に関しては快く思っていないようですから、今更世話をすると言ったところで反発されるのは必至でしょう」
「……そうですか…………」

 そう言って俯いた彼の横顔は、言葉に反して特に悲しそうではなかった。むしろどうにかして認めさせようとしているのだろう、険しい表情で何事かを考え込んでいる風である。
 後輩が悩んでいるのなら、道を示すのが先輩の務めである。だから、は後押しをすることにした。

「やってみるといいでしょう」
「え?」
「花壇の手入れです。規定上は何の問題もありませんから。貴方が花好きなのか土いじり好きなのか、はたまた屋上をイングリッシュガーデンにしたいのかは知りませんが、やりたいことがあるのなら遠慮は無用です。好きなことは好きなだけやるといい」

 ただし常識の範囲内で、と付け加えると、幸村精市は目に見えて表情を明るくした。相当嬉しいのだろう。

「……っ、ありがとうございます!」

 そのままバタバタと出て行く姿を見送って、は、さて、と呟いた。生徒会長と美化委員と園芸部にどのように根回しすれば良いだろうか。



 ――そうした出来事を経て、四度目となる邂逅が、先ほどの告白である。そういえば敬語もなくなっていたように思う。正直意味が分からなかった。
 一体何処に幸村精市を告白へと導くものが合ったのか、には理解できなかった。可能性があるとすれば会議後の会話であるが(それ以前は会話すらしていない)、あの時の彼はとにかく花壇のことで頭がいっぱいだっただろうから、の発言は覚えていても、顔を覚えているかどうかについては怪しいものである。現に、直後すれ違った廊下で視線すら合わなかった。

(やはり分からない)

 セミの声がうるさくなってきた。いくらか汗もかいてきた。
 けれども動けない。何度考えても分からない。分からないから、動くことができない。
彼の気持ちは嬉しかった、それでも――

(それでも、君の隣に立つことはできない)

 視線をテニスコートに向ける。ボールを打ち合う音が煩わしい。コートを見るたび、ラケットが振るわれるのを感じるたび、の表情から血の気が失せていく。

(――ああ、だめだ)

 は踵を返した。ふらつく足を叱咤し、生徒会室へ行こうとして――その場に、倒れこんだ。





 目を覚ますと、黄味を帯びた天井と、周囲に巡らされた白いカーテンが目に入った。屋外で貧血を起こしたのを思い出し、ここが保健室であることを確認するためカーテンを引く。

「あ、起きた?」

 そこにいたのは白衣の養護教諭――ではなく、幸村精市だった。おそらく、倒れたときに最も近くにいたのが彼だったのだろう。それまでの会話が会話だっただけに気まずさを感じるものの、礼ぐらい言わねばと、はベッドから降りて姿勢を正そうとする。それを幸村がとどめた。

「待って、まだ横になっていたほうがいい。倒れたんだから、もうちょっと安静にしててよ」
「今はめまいもありませんし、大丈夫です」
「それでも。念には念をって言うだろう? 最近生徒会、忙しかったみたいだし」

 何故知っているのか問おうとするが、近づいてきた幸村にやんわりと肩を押され、ベッドに倒されてしまい、呆気にとられているうちに機会を逃してしまった。
 幸村は保健室にある丸椅子をベッドの横まで持ってくると腰掛け、の額に塗れたタオルを乗せた。その一連の動作を眺めていて、ふと気付く。告白されたときはテニス部のユニフォームだったはずだが、今は制服だ。こころなしか、窓から差し込んでいる光が赤い気がする。もしかしてもう放課後なのだろうか。

「――あの」
「ねえ」
「……………………なんでしょうか」
「テニスが嫌いって、本当?」

ぎくりとする。次いで、心臓のあたりから衝動が湧き上がってくる。
それを、ベッドのシーツを握り締めることで耐え、は口を開いた。

「……テニス部である君の前でするような話題ではないでしょう」
「でも、先輩に告白した俺にとっては死活問題だよ」

 否定しないんだね、と呟くテニス部の二年生ホープから顔を逸らす。微かに冷房の音が聞こえてきた。
 返事をしないに向かって一度溜息を付いたあと、幸村はゆっくりと目を閉じた。

「……そっか」

 諦めたような、静かな声が空気に溶ける。さぞかし遺憾に思っているだろうとが顔色を窺えば、そこに見えたのは存外柔らかな微笑だった。それ以上何かを発することなく保健室を出ていく幸村の後姿に一つの終焉を見て、は額に乗せられた布をまぶたの上に移し、両腕で顔を覆う。
 感傷はない。涙も出ない。けれど、胸は苦しかった。



 ――と、いう出来事の後に、たどり着いた八月末。は立海テニス部が二年連続で全国大会優勝を果たしたという報せと、『幸村精市』が立海運動部としては異例となる『二年生部長』になったという報告を受けた。――本人から。

 内部進学が決まっているとはいえ、一応受験生であるは、時折図書館に足を運ぶ。純粋に勉強のためであったり、息抜きの読書だったりと目的は様々だが、兎も角この日もまた、図書館で涼んでいた。
 そこに突如として現れた幸村が、遠慮なくの向かい側に座って喋り始めたのである。
 さすがに無視できなくなったは言葉を返した。

「知っていますよ」
「え、そうなの?」
「生徒会長に報告したでしょう。それを私が知らないはずはありません」

 それよりも、とは開いていた本を閉じる。
 保健室での一件からおよそ二ヶ月。あの日、か細い糸のようだったと幸村の繋がりは完全に絶たれた――と思っていたのはこちらだけであったのだと、気付くのにそう時間はかからなかった。正確には保健室で別れた約一週間後には、今のような事態に陥っていた。幸村は諦めていなかったのである。
 今まで以上に――いや、それまでが殆ど関わりのない関係であったのだから、それから、と言うべきか――に話しかけるようになった幸村は今までよりも更に活き活きしているようにみえる、とに話したのは、テニス部一年生の切原赤也だ。
 家が近いこともあり、小学生の時分より見知っている存在である切原は、実のところ、がテニスをやめる切欠ともなった人物である。四年生にして六年生であるを完膚なきまでに叩きのめした技量は立海テニス部においても遺憾なく発揮されていると風の噂で聞いた。

 思考を逸らし現実逃避をしているの姿に幸村は不思議そうな顔をしつつも、まあいいかとばかりに話題を変えてくる。それは屋上庭園の話であったり、社会見学での出来事であったりと様々で、無視しきれなくなったはとうとう読書を諦め、話に付き合うことにした。

(……?)

 不意に違和感を覚える。
 果たして言うべきことなのか――そんな疑問が胸を過ぎるが、この際である。司書は事務室に入り、夏休みの図書室には誰もいない。今をおいて聞く機会はあるまい。

「あなた、最近テニスに関することを一言も話しませんね。この間まで話題の大半がテニスだったのに」
「………………」

 黙り込んだ幸村を真っ直ぐに見つめる。間違いない、彼は故意に、テニスの話題を避けている。

 幸村精市という人物は自身に対して非常に素直で、かつ感性豊かである。この二ヶ月間ではそのことを知った。喜びも悲しみも、抑えはするが隠さない。常に自分の思うままに生きている。
 『やりたいことをやる』、それが彼の行動理念らしいとに教えたのもまた、切原赤也であった。なるほど確かに、いまや屋上庭園は彼の私物と化し、美化委員会は会議での発言権を異常なほど持っている。数ヶ月前に行われた社会化見学の行き先が、今までの市立図書館に併設された小さな美術館から上野の美術館に変更されたのも彼のごり押しによる所が大きいらしい。

 穏やかにして傍若無人、自身に素直であるために計算高く振る舞う。矛盾しているようだが、おそらく彼の中では全て筋が通っている。ならば、彼が最も重きを置いているであろうテニスについて話さなくなったのは、それが彼の中で『筋が通っている』ことだからだ。

 はじっと彼の言葉を待った。そうすることが正解であると感じたからだ。
 ややあって、幸村は重々しく口を開いた。

「……俺、テニスが好きだよ」

 眉根を寄せて告げられた返答に、は目を丸くする。それはあまりに予想通りの答えだった。だが少なくとも、眉を顰めて言う言葉ではない。

(……ああ、でも)

 思い返せば、が眺めるテニスコートでの彼は笑っていなかった。表情を緩めることもしない。いつだって必死で、どこか切羽詰っている。少なくともの目にはそう見えていた。およそテニスを楽しんでいる人間の行動には見えない。
 だが、それが彼にとっての『筋』なのだろう。
 好きだからこそ手を抜かない。好きすぎるから、他のことは二の次に、理想を追い求めてしまう。
 そして、部長に就任したことで、その傾向に拍車がかかった――つまりはそういうことだ。
 彼はよりテニスに打ち込み、真剣に向き合おうとしているが、強豪校の部長としてのフィルターを通さなくてはならなくなったばかりに、今までのような感情の自由を失ってしまったのだ。

 その姿に興味がそそられたものの、どこか既視感を覚え、それ以上深く知ろうとは思えなかった。
 だから頷き、「そうですか」とだけ返す。
 幸村が目を丸くしていたが、その理由は、にはわからなかった。



 九月に入り新学期が始まってから、幸村によるへの接触は目に見えて増加していた。生徒会副会長という立場もあり、昼休みや放課後は生徒会室で過ごすことの多いに、幸村は何かと会いに来た。純粋に部活や美化委員として来る事もあったが、大抵は昼食の誘いや、会話を楽しむためであった。本来生徒会室は役員以外出入り禁止のはずであるが、他の役員は何も言わない。疑問に思い生徒会長に苦言を呈すも、曖昧な笑みでもって目を逸らされるだけで効果は無かった。

「沖縄に行ってきたんだ」
「修学旅行ですね」
「そう。暑かったけど、海は綺麗だったし、南国の果物もおいしかった。色々考えさせられたし、良かったよ」
「それは良かったですね」
「うん。――で、お土産」

 軽い金属音を立てて、幸村はの目の前に何かを垂らす。は書類に向けていた目を上げた。
 一瞬、窓から差し込んだ光が『それ』に反射しての目を焼く。細めた目の先にあったのは、イルカを象(かたど)ったキーホルダーだった。ピンクのガラス玉で遊ぶかのように、二匹のイルカが円を作っている。

「可愛いですね」
「だろ? 見つけたとき、もう『これしかない!』って確信したんだ。だから、あげるよ」
「…………」

 逡巡した後、はキーホルダーに手を伸ばした。もともと可愛いもの、綺麗なものには目がないのだ。

「ありがとうございます」
「うん」

 満足そうに笑う幸村に、つられてもかすかに微笑(わら)う。途端に幸村の表情が固まり、数秒後、勢い良く立ち上がると走って生徒会室から出て行ってしまった。彼の倒した椅子を片付けながら呟く。

「……不可解ですね」
「え、まさか、分かってないの?」

 生徒会長が怪訝そうに尋ねる。間髪入れずには答えた。

「まさか。そこまで鈍感ではありません。……そうではなく」
「そうじゃなくて?」
「…………いえ」

 はテニスが嫌いである。ラケットも、コートもテニスボールを打ち合う音も、テニスプレーヤーだって例外ではない。だから立海が誇る最強のテニスプレーヤーである幸村とは、今まで一線どころか二線三線ひいた上で接してきた。そうしなければ溢れ出る嫌悪が表に出てしまうような気がしていた。だから笑えなかった。――意図して笑わないようにしていたのだ。だというのに今の己の態度は何だ。

「無意識でした」
「幸村君、すごく良い子だよ。まあ……ちょっと、いや、かなり癖はあるけど」
「分かっています。――分かって、いるんです」
「うん。あれだけ見ていたんだしね」

 からかうような生徒会長の言葉に、は少しだけ視線を険しくさせた。苦笑して両手を挙げ、降参の格好を取る生徒会長に溜息をひとつこぼし、生徒会室で一番大きな窓に歩み寄る。
 その窓からは、テニスコートが良く見えた。
 の顔が複雑に歪む。泣きたいのだか、吐きたいのだか、目を逸らしたいのか、見ていたいのか。
 まだ、向き合うには決定的な何かが足りない。その『決定的なもの』が何なのかも、分からない。



 ――の困惑を乗せたまま時間は過ぎ去り、そうして、十月を迎える。





 その日、は十二月の引退に向けた生徒会長選挙の準備に追われていた。立海大付属中では、選挙によって選ばれるのは生徒会長のみで、他の役員は会長の指名によって決定される。自身、現生徒会長の指名によって選ばれた。また、立海の生徒会長は他校に比べ、格段に大きな権力を持っている。生徒主宰の行事の決定権や予算会議での発言権だけにとどまらない、その内容は多岐に渡る。
 だからこそ、会長選は生徒にとっても生徒会にとっても、特別大きな意味を持つ。僅かなミスも許されない。
 立候補者と推薦者、応援人の評価書類、演説原稿、推薦文、応援文草稿に目を通し、投票方法について話し合いを重ね、選挙当日の流れについて何度も確認し、不正や組織票の入る余地を限りなくゼロにする。
 同時進行で引継ぎのための書類作りや教師との話し合いも行われるため、十月に入ってからというもの、を始めとする生徒会役員は常に仕事に追われていた。

 僅かな休憩時間をひねり出し、は中庭のベンチに腰掛け、食堂の自動販売機で購入したペットボトルの緑茶を飲む。冷たい茶は外気と併せての体を冷やしたが、同時に頭も冷えていくような気がして丁度良かった。
 橙色の夕陽が少しずつ沈んでいくのをぼんやりと眺めながら、時折視界を横切る落葉に目を細める。ひらひら舞う木の葉は、やがて地に落ちて、カサリと乾いた音を立てた。

 ふと、夕陽が遮られ、は濃い影に覆われた。

「――……のねえちゃん? 何してんだ? こんなとこで」

 見上げると、逆光で表情こそ見えないものの、特徴的な天然パーマによって一目で誰だか特定できる――切原赤也が立っていた。テニス部独自の芥子(からし)色のジャージを着用している様からは、一年生ながら彼がレギュラーの座を獲得したのだということが読み取れた。

「少し休憩。最近生徒会がバタバタしてて」
「あ、それ、何だったっけ。先輩に聞いた気がする。カイチョー選? とかいうの? その準備があるんだろ。スイセンニンとか応援エンゼツとか。この時期は会議も多くなってるって聞いたけど」
「そう。……生徒会の事情に詳しい先輩がいるのね。意外と内部事情はダダ漏れなのかしら」
「んー……仁王先輩が『幸村は本当に生徒会に詳しいのう』って驚いてたから、部長が変なんだと思う」

 ――普通はそこまで他の委員会のこと知らないぞ、って言われてたし。
 そう言って隣にストンと腰を下ろした切原の言葉に、は小さく頷いた。頻繁に生徒会室に出入りしていた幸村ならば、詳しくもなるだろう。十月に入ってからは一度も来ていないが、部活動も十二月の引継ぎに向けて動き出す時期である、部長についてはすでに引き継いでいるとはいえ、他の役職の引継ぎがあるのだろう。
 ペットボトルを奪って緑茶を飲み干した切原は、をじっと見ると、ニヤニヤという表現がぴったりと当てはまるような笑顔を浮かべた。

「そういや、うちの部長にコクハクされたんだよな?」

 流石に驚いて、は切原の顔を凝視する。切原は、満面の笑みで以てそれに答えた。

「やった、ひっさびさにねえちゃん驚いたな! 俺の勝ちっ!」

 勝負をした覚えはない、とは思うものの、どこか悔しさを覚えたは切原の額を軽く小突く。へへ、と嬉しそうに笑う切原に、諦めたような溜息を一つこぼした。

「どこで聞いたの?」
「え、幸村部長からだけど」
「……まさかとは思うけど、テニス部全員が知っている、なんてことは」
「それは無いよ。多分、俺と、あと二年生の何人かだけだと思う……ほんと、多分、だけど」
「…………幸村君…………」

 頭を抱えて呻いたに、慌てたように切原が手を振った。

「い、いや、幸村部長分かりやすいから。 ねえちゃんが近く通るとすっげー嬉しそうだし、生徒会室の窓ってテニスコートからも良く見えるから、ねえちゃんが少しでも見えると練習が更に鬼のように……!」
「…………」
「でも本当に、幸村部長と仲良い二年生か、俺くらいしか分かってないと思う。俺は……もともとねえちゃんのこと知ってたから、なんとなく『あ、そうなのかな』って」

 必死にフォローする切原に、仕方がないというように小さく息を吐いて、切原の頭を撫でる。
 そうしていると段々と落ち着いてきたのか、切原は目に見えて表情をくもらせた。

「……あ、でも……だからさ、ねえちゃんが幸村部長のコクハクを受けることはないんだろうなってのも……分かった」

 切原の根拠はおそらく、二人がまだ小学生だった頃に行った、最初で最後の――にとっては本当に最後の――テニスの試合なのだろうと、簡単に予想が付いた。
 完膚なきまでに叩きのめされたにとって、息一つ乱れていない切原の姿は何重もの意味で衝撃だった。
 小さい頃から近所に住んでいて付き合いのあった切原に、テニスの存在をを教えたのはだった。テニスに打ち込んでいたにとって、切原にテニスを教えることは良い息抜きになるはずだった。
 けれど切原は、周囲の誰もの予想を裏切り、見る間に成長していった。小学校高学年に上がる頃にはすでに周囲を圧倒しており、そしてあの日――は、切原に負けたのだ。

 そして散々泣きわめき、当り散らし、考え付く限りの罵声を幼い切原に浴びせ――放心したまま、ラケットを手放した。
 三年前の出来事である。

 幸いだったのは、切原がその後も変わらずを慕ったことと、テニスを辞めなかったことだ。そして切原に対し後ろめたい思いを抱えることになったはその後、彼に対してやや甘くなった。

「でもさ、ねえちゃん、ちょっと変わったよな」
「……そう?」
「だってさ、幸村部長と普通に話してるんだろ? テニスの話題も出してたって部長が言ってたし、俺がテニス部のジャージ着てても、何も反応しないじゃん。……あんだけテニス嫌ってたのにさ。俺、話しかけるの結構悩んだんだけど」

 バツが悪そうに顔を逸らす切原の心情を、は痛いほど知っている。

「……ごめんなさい」
「分かってる。……でも、やっぱり違うよ。なんかさ、ちょっと悔しいけど……嬉しいかも」

 はにかんでみせる切原に申し訳なくなり、自然、眉根が下がる。
 切原はそれを見て、の顔を正面から見つめた。そして真剣な表情で続ける。

「……あのさ、俺、ずっと思ってたんだけど、ねえちゃんはテニスが嫌いなんじゃなくて、本当は――」
「赤也!!!」

 言いかけた言葉は、男の呼びかけに遮られる。
 はっとしたが振り向くと、切原と同じテニス部のジャージに身を包んだ人物が息を切らせながら走り寄ってきた。相当急いだのだろう、流れる汗を拭うこともせずにベンチまで来ると、大きく息を吸い、吐き出した。
 色素の薄い髪が呼吸に合わせてかすかに揺れる。

「仁王先輩? どうしたんスか、そんなに慌てて」
「……っ、病院にいくぞ!!」
「は?」

 そして仁王は、の記憶に深く刻み込まれることになる言葉を発した。

「幸村が、倒れた」




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