79.
 キルアの目が見開かれる。は務めて冷静に振舞う。

「後悔って……何を」
「ゴンたちのもとから去ったことを」
「…………」

 ギッと自分を睨み付ける少年の相貌に心が竦み上がる。ああ、何故あんなことを口走ってしまったのか。後悔するがもう遅い。「してない。後悔なんか」キルアが呟く。低い声色での呟きは言葉とは裏腹に彼の気持ちを雄弁に語っているということに彼は気付いているだろうか。

「後悔しておいでですか」

 もう一度訊く。キルアは何も答えない。俯く彼の表情はの死角になっていて全く見えない。

「………

 いつか聞いた、泣きそうな声で。

「オレ、ゴンに会う資格ねえよ」

 いつか見た、辛そうな顔で。



80.
 はオレの心を抉るのが得意だ。オレの食事を取りに出て行った扉を睨み付けて呟く。しかもいずれ向き合わなければいけないことを悪気もなく言うもんだからタチが悪い。(まあ、その場合あとから気付いて面白いくらいに顔を青褪めさせるんだけど)後悔なんて、

「するに決まってんじゃん……」

 やっと友達が出来たのに、オレはあっさりと兄貴に屈服してしまった。ゴンを殺すと兄貴が言ったときに何かを言い返すこともまして戦うことすらも出来ず。ただただ足が震えて震えて仕方がなかった。
 悔しくてたまらない。悔しくて悔しくて悔しくて!

 兄貴と戦わないといけなかった。戦って、勝たなきゃいけなかったんだ。そうじゃないと兄貴は本当にゴンを殺してしまう。気まぐれで殺さないこともたまにあったけれど、兄貴は大抵自分の言葉を曲げないから。
 足が竦んで動かなくてそんな自分が情けなくて。

 ごめんな、ゴン。オレお前を見捨てたよ。ケタケタと笑いながらオレの頭に誰かがささやく。最上級の嘲りをもって。ごめんな、ゴン。いくら謝ってもダメだけど。
 憤って憤って仕方なくてレオリオの対戦相手を刺したけど。にヤな言葉浴びせたけど。

「………っ」

 ダメなんだ。どうしても。お前の笑顔が頭にちらついての困った顔がそれを抉って。……どうしよう。

「なあ、

 いつの間にか食事のトレイを持ってオレの前に立っている使用人の名を呼ぶ。

「もうゴンに会えないのかな。オレやっぱり友達できないのかな」

 そういえばもそうだった。友達になってはくれなかった。自分は使用人なのだと言って頑なに拒んだ。カナリアも同じだ。ダメですダメですとそればかり繰り返して。あんまり泣きそうなんでオレの宝物の一つをあげたんだけど、アイツ今でも持ってるのかな?小さい骸骨の模型。
 こんな家に生まれなければよかった。冷たくて暗い家で人殺し。そんなの本当はいやだった。幼い頃は人を殺して母親や兄貴に褒めてもらうのが好きだったから、一生懸命だったけど。
 。お前オレの世話役になるべきじゃなかったよ。お前のせいで差異に気付いたんだから。

 笑顔を見るの、別に嫌いじゃなかったんだよ。だから母親や兄貴の嬉しそうな顔を見るために人を殺した。カナリアの泣きそうな顔を見たくなくて宝物を手放した。のも見たくて結構努力してたんだけど、結局笑いはしても嬉しそうな顔は見せてくれなかったような気がする。
 渇いて餓えて渇いて餓えて渇いて餓えて泣きそうなくらい。

「友達がほしかっただけなのに」

 残念なのか悲しいのか笑いたいのか泣きたいのか、もう全然分かんねえよ。


「キルア様は少々ゴンを見くびってはおられませんか?」

 その声に顔を上げる。こころなしか少し怒っているような感じもするけれど普段から無表情なので判断に苦しむ。それより言葉の内容が気になってオレは声を荒げた。

「……何それ。どういうことだよ」
「わたくしもあの場におりましたからキルア様の気持ちが全く分からないというわけではないのですけれど。話を伺っておりますと、どうもキルア様がゴンを多少過小評価している様子が見受けられましたので」
「なに?オレよりお前のほうがゴンのことが分かるって言いたいの?」

 はオレの言葉に少し笑った。

「いいえ。キルア様はどなたよりもゴンに近いところにいらっしゃいます。近すぎて見えないのでしょう。人は誰かと仲良くなればなるほど、そして相手が大切であればあるほど不安になるものです。『自分は本当にこの人に好かれているんだろうか。もしかしたら嫌われてはいないだろうか。……離れてしまわないだろうか』」
「……!」
「………私が、そうでした」

 そして一呼吸おいては言葉を紡ぐ。

「ゴンはキルア様の行動など気にしていませんよ」

 それはゴンがオレに対してただ無関心なだけなのかそれともオレを信頼しているからなのかとてつもなくきわどいところにある言葉だったが、前者で取ると間違いなく奈落のドン底に落ちる予感がしたのでとりあえず前者で考えることにした。
 ………もう少し言葉を修飾してほしいと、あとで言おう。スプーンで運ばれる食事を無言で嚥下しながら、オレはすごく微妙な気持ちになった。



81.
 カチャとプレートの上の食器が音を立てる。ゼブロとシークアントの住む守衛用の住まいでは紅茶を淹れ菓子を盛り付けていた。試しの門を開けるためにゴンたちがこの家で特訓を始めてから今日で二十日になる。

「休憩いれようか」

 門の前で奮闘している彼らがこちらを向く。いまだ開けられていないのはクラピカだけだ。しかしこの分なら昼過ぎにはクリアするだろう。……片方2トンの扉をよくぞまあ開けられるものだとは感心する。
 テーブルも適当な岩もないのでその辺の地面にプレートを置く。紅茶の香りがふわりと鼻先をかすめた。今日のお茶請けはパウンドケーキ。執事室の厨房で作ったものだ。(もっとも大部分を他の執事に手伝ってもらったのだが)はじめこそゴトーにあからさまな不機嫌顔を叩き付けられたものだが暫くするとなくなった。執事邸にもお裾分けしているからだろうか。

「ああ、いつもすまないね」

 ゼブロが笑ってこちらに近づいて来て地面に腰を下ろした。それに続くように三人も腰を下ろす。真っ先にゴンが「いっただっきまーす!」と言ってパウンドケーキに手を伸ばす。直接的に自分が関わったのは材料を混ぜるところくらいだがこうも嬉しそうな顔をしてくれると今までゴトーの嫌味に耐えてきた甲斐があったというものである。あとでキルアにも届けようか。

「そろそろ全員クリアできそうだね」

 問う。クラピカは「私が足を引っ張る形になってしまったな」と困ったように笑った。それを聞いてそんなことないないと笑って流すこの二人は、本当に何というか。
 自分などが出会ってよかったのだろうかと思えてくるほどに眩しくて。は少し目を細めた。

「じゃあ、私は先で待っているから。……頑張れ」

 色々な含みを持たせて呟いた言葉に気付いた者はいるだろうか?



82.
 ゾルディック家には一族執事守衛問わずキルアを好いている者が多い。具体例を挙げるとゴトーと、そしてカナリアがその筆頭だろうか。キキョウも彼を溺愛しているがそれが「暗殺一家の跡取りとして」の部分を差し引きしてしまうとどうなるのか考えるのが怖くて、は一族のほうを意図的に考えから除外している。

、オレ、……やっぱゴンと行く」
「まあ。お決めになったのですね」
「……ん。お前に言われてから考えてたんだけど、なんつーか。……許して、くれるかな。アイツ」
「それは本人にお訊ねなさいませ」

 だからゴンたちにとって本当の障害は試しの門などではなくゴトーとカナリアなのだろう。ははなからキルアを行かせるつもりでいるので結果的にはゴンたちの味方だ。
 それでは出発は早いほうがよろしゅうございますね、わたくしはお荷物の準備をしておりますのでと言っては独房から出る。キルアが去ると考えてちくりと胸が痛むのはやはりもキルアのことを好いているからなのだろう。これが愛情なのか恋愛感情なのかは分かりきっているので今更考えない。



 掠れた声に呼び止められる。振り向いては頭を下げた。

「何でございましょうか、ゼノ様」
「キルを行かせるのか?」
「……キルア様がお決めになったことに口を出すことはいたしません。従う所存でございます」
「ふむ。……おぬしがここへ来てからもう4年経つのか。早いものだな」

 くつくつと笑うゼノには内心首を傾げる。静かな、しかし威厳のある老人の声はにとって恐怖を感じさせるものではなく、逆にある意味での郷愁を思い出させるものだった。自分の祖父と重ねてしまう。

「おぬしも準備しておくがよい。キルはきっとおぬしも連れて行くであろうからな。……ああ、キキョウには気をつておけ。あれはおぬしを大層気に入っているから、このままではいずれ兄弟の誰かの嫁に持ち上げるぞ」

 信じられない衝撃に敬うことも忘れては顔を上げる。ゼノはそんなを見てさらに笑みを深くした。

「わしも孫が一人増えるのは嬉しいがな」

 そう言って去っていくゼノの姿をただただ見つめる。独房から出てきたキルアに声をかけられるまで、は暗い廊下に突っ立っていたのだった。



83.
 ゼノの言うとおりキルアは「も一緒だ」と言って譲らなかった。シルバとキルアが談話している間ずっとは扉の前で待っていたわけだが(声は漏れてこないので無音の暗さである)扉が開いて中へ入れられるとすぐにキルアがそう切り出したのだった。シルバは顔をしかめるでも驚くでもなく言うなれば「やはりか」というような表情でを見た。

はそれで構わないのか?」

 低い声はゼノと同じく大きな威圧感をに与えるが決して不快なものではない。それとも他の人間がこの声を聞いたら恐怖に縮み上がるのだろうか。自分は慣れているからこんなに普通の対応ができるのだろうか?そんな問いが泡のように出来ては消えていく。

「キルアさまがそうおっしゃるのでしたらわたくしは構いません」

 そういえばこの部屋に入るのは初めてではない。キルア家出の際に呼び出された部屋はここだった。目の端に映る黒い猟犬が少し恐ろしくて、はそれから意識を逸らすために記憶を探る。

「そうか。……、こちらへ来い」

 シルバはを呼ぶ。その真意を図りかねながらも主人の命令に従わないことはできないのでは寄る。

「今日をもってお前に暇を出す。キルを頼むと言うつもりもない。離れて暮らすことも許そう」
「……え?」
「だが、」



84.
 キルアはゴンをその目に留めるなり表情に嬉しさを滲ませて駆け寄る。ゴンもキルアの声を聞くとソファから立ち上がって笑顔を浮かべた。すぐに出発しようと言うキルアの言葉に三人は頷いて出立の準備を始める。

「ゴトー様」

 はゴトーの方へと歩み寄る。正面に立ち深々と頭を下げて謝辞を述べた。

「今日限りでお暇をいただくことになりました。……今まで本当にありがとうございました」
「そうか」

 ゴトーは無表情に眼鏡をクイと上げる。大方予想していたのだろう。そんなゴトーとは逆にの涙腺は限界まできていた。恥ずかしながら。
 かなり、嬉しかったのだ。この家はにとって(殺される危険性は常に孕んでいたが)相当に居心地のいいものだった。ゴトーも最初のほうはともかくとして最愛の主人・キルアの世話役をに任せるほどに信頼してくれるようになった(とカナリアが言っていた)し、他の執事は初期のゴトーによるいびり(まるで嫁姑のようだったと話したのは誰だったか)を微笑ましく見守りつつも時折救いの手を差し伸べてくれていた。(大抵傍観を決め込んでいたけれど)
 シルバ様は何とおっしゃっていた、とゴトーが訪ねる。は先ほどのやり取りを思い出す。

『だが、お前が望むのならばいつだってこの家はお前を待っている。いつでも帰って来い』

 そのあとに続いた「そのときは誰かの嫁に上がっているだろうがな」という含み笑い付きの言葉を自分は知らないし聞いていない。知らないものは知らない。一気に青ざめたにゴトーは訝しげな表情を見せた。

「…………………………………………………快く送り出してくださいました」
「……個人的にその間が気になるが」
「気にしたら負けです」
「………」

 同情を込めた視線を送ってくるゴトーはじめ執事そしてカナリアの無言の慰めに心中滝涙にくれつつ、
自分が燕尾服以外の私服を持っていないことをようやく思い出した。そういえば戻るときも相当変な目で見られていたような気がする。それから「めしどころ・ごはん」にも挨拶にいかないと。トランプも買わないと。

様、お気を確かに」

 ああ、現実とはかくのごとしか。嬉しくもあり意外性もあり悩み尽きることなく己に降りかからんとして。



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