天球ディスターブ 【間章】 後編



 『元の』世界に戻ってきて数日が過ぎた。帰ってきた日、は泣きに泣いて母親を困らせた。
 本当は泣きたくはなかったのだ。
 泣けば泣くほどに『あちら』と『こちら』の隔たりが厚く高くなるような気がしたし、なにより――認めたくなかったというのが正直な気持ちだった。それが『あちら』の世界の存在なのか自分が『こちら』の世界に戻ってきたということなのかについては、考えると何かが噴出しそうで――結局答えは出せずじまいだったが。それでも堪え切れなかったのはやはり、単純に悲しかったせいなのだろうと思う。
 母には、泣いた理由は「振られた」からだと言った。携帯の画面を見せると納得していた。



 机にうつぶせになって寝ていた上体を起こす。途端に教室のざわめきが耳に流れ込んできた。それは普段の様子よりもさらに増して大きい。――当たり前かもしれない。今日は終業式なのである。明日からは夏休みが始まる。もちろん暫くは課外があるので登校しなければならないが、それだってそう長いこと続くわけではない。それさえ乗り切れば毎日が日曜日状態。興奮もするだろう。
 熱気の波に乗れなかったは一歩引いた所から眺める。嬉しいとは思うが、いまいち実感が沸かない。時間の流れがうまくつかめない、向こうで過ごした1年近くはこちらでは半日にも満たなかった、その差異が。
 不思議なことに記憶の混乱はない。向こうの世界に行く前の記憶はとても鮮明だ。忘れてはいない。だからこそ、流れた時間と記憶の鮮度の違いに混乱するのだ。
 
 ――もう。

 考えるのは止めよう。こればかりは答えを模索したところで何になるものでもない。とにかくこちらの世界はの記憶と変わりなく存在し、時を刻んでいるのだから。

 ――いや、違う。一つだけ変化していることがあった。

 他のクラスの男子が一人、行方不明になっているらしい。
 それが何を意味するのかには分からなかったが――。



 体育館での終業式の後、ざわざわと教室を出て帰宅したり部活に向かったりする生徒を見ながら、はぼんやりと窓際に寄って風を浴びていた。校長の話も生徒指導の先生の話もよく思い出せない。中庭が見下ろせる窓から身を乗り出せば、校舎から次々に出てくる生徒がよく見えた。

?」

 霞がかった思考が、突然の突風に中断される。振り向くとクラスメイトがいた。は笑んで二言三言会話を交わす。彼女はこれから友人たちと買い物に出かけるのだそうだ。しかしその友人のクラスのホームルームがまだ終わっていないので、手持ち無沙汰になった彼女は時間をつぶそうと思いに声をかけたらしい。
 他愛のない話をしていると、ふと彼女が声のトーンを落とした。

「……やっぱり、元気ないよね、
「そうかな」
「うん、なんていうか…雰囲気もちょっと変わったかも。……ね、やっぱり、あのことが原因なの?」
「あのこと?」
「あ、ごめん!話したくないならいいんだけど。あの――」

 彼女が言葉を紡ぐ前に、教室の入り口で彼女の名前を呼ぶ声がした。どうやら友人が迎えに来たらしい。中断された会話を続けることなく、少しだけ申し訳なさそうに彼女は友人の元へと向かった。
 気が付けば人のいなくなった教室で、は先程のやりとりを思い出す。

 ――「あのこと」とは何だろう。

 どうやら自分は雰囲気が少し変わったらしい、そしてその原因は「あのこと」だと推測されている。思い当たるのは異世界のことだがそれを他者が知るはずはない。自分は誰にも話していない。
 ならば何だ。
 会話から推測するに、自分に関わる、もしくは関与したことである可能性が高い。しかし心当たりはない。

 ――どういうことだ。

 自分が異世界に関わったことでイレギュラー的要素が世界に生じたのか、それとも。
 は自分の記憶に自信がない。自分にとって一年前のこの世界での出来事が鮮明で、数日前の異世界での出来事も鮮明で。どちらが本物なのか偽者なのか判別しかねる。どちらも本物だと認めるには、少しばかり勇気が足りない。だから――

(もしも記憶が欠けていたとしても、きっと気付くことが出来ない)

 それは確信で不安で焦燥で、寂しさを伴いの内をかき乱している。
 窓の外のざわめきが教室に木霊する。直射日光がの肌を容赦なく焼いていく。

 やけに冷たい汗が一筋、流れた。



 混乱する頭でも、帰路は習慣が導いてくれた。電車に乗り、家の最寄り駅で降り、自転車に乗って家まで帰る。たったそれだけのことが酷く懐かしく、同時に何の感慨も沸かない。矛盾している。

「ただいま」

 声をかけるが返事は返ってこない。は首をかしげて足元を見る。母の靴はある。外出しているわけではないようだ。不思議に思いながらも靴を脱いで玄関を上がり、居間のガラス戸を開けようと手をかけたとき、声が聞こえた。

「……まだ、見つかっていないんですね……ええ。あの子も今は普通に振舞っていますが、ショックだったろうと思います。……あ、はい、そうですね。彼がうちの子に送ったメールはそれが最後みたいです。……はい…はい。分かりました、また何か分かりましたらお知らせします。はい…では」

 は目を見開いた。そのままできるだけ足音を立てないように後ずさり、階段を上がって二階に向かう。静かに自室のドアを閉めると座り込み、学校指定のバックを漁って携帯電話を取り出した。

『別れよう』

 それは、が母に見せた唯一のメールの文面である。涙の証明として見せたこのメール以外のものをは母に見せたことはないし、また、あまり機械に強くない母だから、他のメールを見たということもないだろう。
 ああそうかと、合点がいった。行方不明になったのは彼なのだ。と先日まで――自分にとっては一年前まで、付き合っていた人。名前はメールの送信者欄で分かる。しかし顔はどうしても思い出せなかった。



 パタンと携帯を閉じて鞄にしまう。クラスメイトの態度も母の電話の謎も解決した今、の心をかき乱すものは一つだけ――『あちらの世界』のことだけである。ドアに背をもたれて両手をかざす。すぐに耐え切れなくなって目を瞑り、両手を背に隠した。
 
――この手は人殺しの手だ。

 あちらで付いたはずの背中の刀傷も太腿の矢の傷も今は跡形もなく消えている。理由は知らないが、きっとそういうものなのだろうと無理やり納得するしか手段はなかった。しかし手は、自分の体は、感覚は、はっきりと覚えているのだ。――人を斬る感触、刀身が相手の体を貫く手ごたえ、粘着質でもなくサラサラでもない、鮮やかというほど綺麗でもなく、どす黒いまで汚れていない、人の血液。そして、有機物の焼ける臭いを。
 それらの記憶はおそらく、生涯消えはしまい。たとえどんなに忘れたいと願っても、時折の悪夢が睡眠を妨げる限り忘れはしないのだろうとは思っている。

 はニュースを見るのが怖い。特に殺人のニュースは見るたび叫びだしそうになる。
 は両親に申し訳なく思う。あなた方の娘はあちらで命を奪っていたのだと。
 は自分の存在が不思議でならない。一体自分はどちらに存在し、どちらに存在していないのか。それとも両方の世界に存在したのか、どこにも存在していないのか。自分は一人だけである。一人だからこそ自分なのである。そして世界も――自分が幻想水滸伝というゲームを知っている限り、ここ一つだけではないのか。

 そこまで考えて、は両手で頬をペシン、と叩いた。
 それはルックや達の存在を否定する思考に他ならない。しかし彼らがまやかしであったとはにはどうしても思えないのである。
 たとえ誰が否定しようと、夢物語だと言われようと、妄想だと診断されようと。
 あの世界で感じた悲しみも絶望も優しさも愛しさも、会った人も見た風景も草の香りも風の音も全て、自分の糧になっている。それはクラスメイトの言葉が証明してくれた。――ならば。
 信じるくらい許される。少なくとも自分にとって、あの世界は――幻想水滸伝の世界は、現実だったのだと。

 背負っていかなければならないだろう。自分の罪は誰にも言ってはいけない。一生涯胸のうちにしまっておかなければならない。そうして、それに屈してはいけない。
 は両手を胸にあて、全身で包み込むように床にうずくまった。





 それからはまた至極「平凡」な日々が続いた。とはいうもののそれはの周りに限ったことであり、世界は今日も忙しなく動いている。各国首脳会議があったり、やはりどこかで人が亡くなったり屠られたりしている。あちらの世界に行く前も、帰ってきた後も何も変わることはない。悲しいニュースに心を痛めはするが、かといって何をするわけでもない。悲しいと感じた次の瞬間、今日の夕飯は何だろうなどと考える。

 高校の夏季課外も終わり、本当の意味での夏休みがやってきていた。自室で課題――いわゆる夏休みの宿題――を片付けていたは、ふと自分の手が止まったままなのに気付き、少し息を吐いてペンを置いた。
 蝉の鳴き声が窓の外から入ってくる。ゆれるカーテンの間から差し込む太陽の光が朝よりも強くなっていた。ああ、もうお昼なのかとは納得する。どうりで暑いわけだ。そろそろクーラーを入れようか――そう思って椅子から立ち上がったとき、不意に目眩がを襲った。

「……っ」

 倒れそうになる体を無理やりベッドに向け、そのまま倒れこむ。
 目をきつく閉じて荒い呼吸を繰り返し、回転する世界をなんとか正常に戻そうとする。しばらくそうしていると、ゆっくりと落ち着いてくるのが分かった。一度大きく息を吐いて、は目を開けた。
 最近、頻繁とまではいかないものの、度々今のような目眩に襲われることが多くなった。そんな場合は概して安静にすればすぐに収まるのだが、やはり気分の良いものではない。は自分が病弱でもなんでもないことを自覚している。一度も病気になったことがないといったら嘘になるが、どちらかといえばいたって健康である。
 夏バテかとも思ったが食欲はあるし、目眩がないときの気分は良好だ。念のため病院にも行ってみたが何ら問題はなかった。正常なのだ。――となると、原因は一つしか思い浮かばなかった。

「引っ張られる感じがする」

 感覚的にではあるが、そんな気がした。身を任せてしまったら途端に堕ちてしまいそうな、崖の淵に背を向けて立っているような恐怖感が眩暈と同時に襲ってくる。もしも身を任せたならばまたあの世界に行けるのだろうか。それとも何も起こらないのか。試したいという好奇心は強い。しかし。

「だめだ」

 家族の顔がちらつく。よしんばあの世界に行ったとして、戻ってこられる確立は未知数である。とて来年受験を控えた身、家から出ることを考えないわけにはいかなかったが、それでも世界レベルで家族の元を離れることは考えたくなかった。優しい家庭、彼らは自分を愛してくれて、また自分も彼らを愛している。
 二度と会えないと、半ば諦めていたのだ。だからまた家族に会えて心の底から嬉しくて――戻ってきたときに流した涙には、間違いなくその感情が含まれていた。

 呼吸が整ってきたことを確認して、はベッドから身を起こした。窓際に寄って窓を閉めるとベッド脇のナイトテーブルの上のリモコンを取り上げ、クーラーのスイッチを入れた。ガガ、とプラスチックが擦れる音の後に生暖かい風が部屋に吹き込んでくる。暫くするとそれは冷たい風に変わり、部屋の温度を下げた。は温度設定を1度上げる。

「優しくない」

 人口の風は彼の人の作り出すものには到底及ばないほどに冷たかった。





 目覚まし時計がなる前には目を開いた。時計を見ると6時55分。設定の5分前だった。冬はなかなか起きることができないのに夏になると何故だか早起きになる。といってもこの時間だと学校には遅刻する。今は夏休みだからいいものの、そろそろ体内時計を戻さないといけないだろう。早起きはしようと思えば出来るがあまり好きではない。レム睡眠とノンレム睡眠のローテーションを計算して就寝すればいいのだろうが、翌日提出の課題やら予習やらでそこまで気を回せないのが現実である。
 は目覚ましのアラームをオフにすると、腹部に掛けられたタオルケットを取り去って立ち上がり、伸びをした。閉じたドアの向こうから微かに聞こえてくる調理音になんとなく安堵する。階下には少なくとも母がいる。その事実がを安心させた。

 朝ごはんを済ませた後に着替えよう――鏡を覗いて寝癖が付いていないことを確認し、はパジャマのまま半日過ごす決意をした。少なくとも午前中は自室か居間で課題と格闘するつもりである。外に出ないのなら着替える必要もない。服飾量産店の黒いルームウェアズボンと、偶然だが黒いTシャツ。色は暑苦しいが通気性はある。日に当たらないので熱を集めることもない。
 よし、と呟いてはドアを開ける。ふわりと魚の焼ける匂いがした。トン、トンと階段を降り、踊り場を過ぎて居間のガラスの引き戸が見える位置に来たとき、顔が強張った。



――世界が、回転を始める。



 後ろに倒れそうになるのを手摺にしがみ付くことで防ぐ。その直後、今度は前のめりになった。
 視界が変に歪む――いや、霞んでいく。足元が覚束ず、落ちないように強く手摺に縋り付いた。

「…く…っ」

 今までで一番酷い眩暈がを襲う。体を落ち着かせようにも階段では無理がある。かといって移動することも、もはや出来なかった。ただただ手摺を掴んだ己の腕だけが頼りである。
 頭の中がかき回される。自分が今後ろに倒れこんでいるのか前に落ちようとしているのかすら分からない。もはや視界は輪郭すらも失って、色の判別すら難しい。
 嘔吐感が込み上げてくる。体の中の内臓が自分の意思とは関係なく暴れまわっている。頭が割れるように痛い。手足が痙攣を始める。嫌な汗が階段に落ちる。筋肉の緊張が最高点に達し、そして――

 フ、と、突如全身から力が抜けた。

 しがみついていた両腕はあっけなく手摺を放し、両足は階段を離れ、体は前のめりになって宙に浮いた。
 ――は眩暈に負けたのだ。
 錯覚か、それとも現実か、階段の最下段にフローリングの廊下はなく、いつかどこかで見たような暗闇が大きな口を開けていた。叫びだしそうになって、は助けを求めるように引き戸のある方を見て愕然とした。

 先ほどまでの視界が嘘のように明瞭になった世界はを絶望に突き落とす光景を映し出した。
 引き戸の不透明なすりガラスの部分と透明なガラスの隙間から、母親が微笑んで誰かに――おそらく父親に――話しかける姿が垣間見えたのだ。

 ああ、自分は確かに、その空間を享受していたはずだったのに。引き戸を開けて、パジャマ姿のまま両親におはようと言って朝食を食べながら父を見送り、母と軽い談笑を交わすはずだったのに。
 悔しさと絶望と落胆と悲しさと。それら全てが混ざった感情が全身を駆け巡る。耐え切れず腕を伸ばそうとしたがそんな時間はなかった。浮遊の0点を超えてしまったら、もう。

 は再び、闇の中へと堕ちていった。




 叫び声はやはり、音になる前に空気に溶けて消えてしまった。








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2007.7.1
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