天球ディスターブ 7





どうやら、あれから自分は眠ってしまったらしかった。

体を起こすと、どこかを寝違えたのだろう、鈍い痛みが走る。

上体を起こして部屋を見回すと既に暗く、ただ月の光だけが小さなテーブルとその上の本を照らしていた。

おもむろにベッドから降りて立ち上がり、光が漏れる窓のほうに歩いていく。

窓の桟に手をかけて視線を上にやると、元の世界の月より幾分か大きなそれが目に入った。

暗さに目が慣れていたようで思わず目を細めてしまったが、数回瞬きをするとやがて慣れた。



月は全てを見下ろすかのようにそこに存在していた。

綺麗だとは思ったが、生憎とそれに感動できるほどの感受性をは持ち合わせていなかった。

そのかわり、月の光が元にいた世界のそれに酷似していたことに安堵した。





一度冴えてしまった頭というのはなかなか強情なもので、は眠ろうとしても眠れなくなってしまった。

軽く溜息をついて一つしかない椅子に腰掛ける。

月の光を頼りにテーブルの上の本をめくってみるが、やはり文字は読めなかった。

パタンと本を閉じ、本棚に戻す。本は3冊しかなかった。



冴えた頭で、これから何をして過ごすかを考える。もはや眠ることは頭になかった。

この城にはが行っていない場所がたくさんあるのだから、探検するという手もある。

しかしここは難民宿舎で今は夜中だ。流石に迷惑になるだろう。

椅子から立ち上がってベッドに腰掛ける。柔らかい感触が心地よかった。



そういえば、とは思う。

自分はこれまで天球の紋章しか使ってこなかったが、気配か何かで存在を知られてはいないだろうか。

知られてはまずいのだと紋章は言っていた。

もヒクサクに知られるのはまずいと思っている。

けれどこの紋章がなければ、きっと自分はこの世界に来るときに死んでいただろう。

頼るほかに生きる道はなかった。


―――でも、もしもそれが原因でヒクサクに気取られたら。


そう考えると、どうしようもない不安に襲われる自分に気がついた。

ハルモニア神聖国神官長、ヒクサク。

の知る限りゲームでは一度も出てきていない彼だが、何故か恐怖を覚える。

それはきっと、『真の紋章狩り』という言葉のせいなのだろうなと、薄っすらと思った。



考えているうちに、望んでいた眠気がやってきたのを感じ取り、はベッドに寝転がった。

重くなった瞼を閉じると、そこでようやく自分が寝巻きに着替えていないことに気付く。

しかしすぐに寝巻きを持っていないことに思い至り、沈んでいく意識に身を任せた。



月は先程より少し傾いて、その光を城へと放っていた。










次に目を覚ますと淡い光が目に入った。

浅い眠りだったのか、すんなりと起きられたことが少し嬉しく感じられる。

夜が明けてからそれ程時間は経っていないはずなのだが、人々の気配が伝わってくる。

窓の前に立って下を見下ろすと、忙しなく動く女の人の姿が目に入った。

訓練をしていたのだろうか、ちらほらと兵の姿も見える。

何故だかいてもたってもいられなくなったは、服の乱れを整えると城下へ駆け出していった。





賑わっていた。

それはまるでお祭りの準備のときのような雰囲気を纏っていた。

洗濯物を運んでいく女の人、談笑している兵士たち、親の手伝いに忙しく駆け回る少年、少女。

比較的目立たないところにいるは、どうやら邪魔にはなっていないようだった。

ぶつからないように注意しながら歩く。

朝の空気をこんなに清々しいと感じたことはない。



暫く歩くと、誰かがシーツを干している姿が目に入った。

その、よく見知った姿には足を止め、小さな声でつぶやいた。


「ヒルダ…」


朝ということもあってか幾分声は掠れていて、喉が少し痛んだ。

女性はシーツを干し終わったらしく、満足そうに見渡してから籠を拾い上げ、振り向いた。

目が合ってしまい、は一瞬身を強張らせたが、ヒルダは優しく微笑んでを見た。


「おはようございます」


ヒルダがにっこりと笑って言った。

も慌てて言い返す。


「おはようございます」


やはり声は掠れ、その上低くなっていた。

ヒルダはの前に歩み寄り、また微笑んだ。


「はじめまして。あなたのお名前を聞かせてもらってもいいかしら。私はヒルダ。宿屋をやっているわ」


ごく自然な、とても優雅な仕種で言う。

何と返したものかとは考えるが、いい挨拶も何も浮かばなかった。


です」


結局それだけを言葉にした。

ヒルダは驚いたような表情をして、それから「ああ」と納得したように頷いた。


「あなたがさんなのね。夫から話は聞いているわ。シュウ軍師を言い負かしたんですってね?」


くすくすと笑いながら言う。

朝であるせいなのか何なのか、は笑うことが出来なかった。


「言い負かしてませんよ」

「あら、でもシュウ軍師に向かってはっきりとモノを言ったんでしょう?」

「それは…そうですけど」

「それだけでも凄いことよ。普通は竦んでしまうんだから」


楽しそうに言うヒルダに、つられても微かに笑う。

ヒルダはそれを見て満足そうに頷いてから言った。


「立ち話も楽しいけれど、宿のほうで話さない?…人手が足りないの。手伝ってくれないかしら」


困ったように言うヒルダをは綺麗だと感じ、頷いて了承の意を示した。





「まだ眠っている方もいらっしゃるから、そっとね」

「はい」


は大量のシーツを両手いっぱいに抱え、物音を立てないように宿屋の廊下を歩いていた。

夜が明けて大分経ったのだが、地下にある宿にそんなことは関係ない。

薄暗い廊下を、仄かに階段の上から漏れる光を頼りに歩いていった。

なんでも今日のベッドメイキングに使う筈のシーツに子供が誤って花瓶を落としてしまったらしい。

それであんな早くからシーツを干していたのか、と納得した。



宿の外に出る。

気を緩め、ふう、と息をついた。

それにヒルダがくすくすと笑いを零し、「こっちよ」とを促した。

出遅れたは慌ててヒルダの後を追った。





やってきたところは洗濯場だった。

真白なシーツがはたはたと風に揺れる様は、夜が明けきった空のやわらかい青によく映えていた。

ヒルダはそこで洗濯をしている女性に声をかけた。


「おはよう、ヨシノ」

「あら、ヒルダ。おはようございます」


ヨシノは丁寧な口調で挨拶を返す。

ヒルダは申し訳なさそうに言った。


「ごめんなさい、このシーツも洗ってもらえるかしら」


ヨシノはにっこりと微笑んでそれに返した。

ヒルダとは少し違う笑い方だ、とは思った。


「勿論、構わないわ。洗濯は大好きですもの」


ちら、とヨシノが視線をシーツから上げると、二人のやり取りを見ていたと目が合った。


「そちらのお嬢さんは、どちら様かしら」


笑みを絶やさずに言う。

は急に話題を振られて微かに驚いたが、朝で調子が出ないためか表情は変わらなかった。


です」


ヒルダのときと同じように名前だけ告げると、ヨシノもまた「ああ」と呟いた。

は急いで付け加える。


「シュウ軍師を言い負かしてはいませんよ」


ヨシノは一瞬目を丸くした後、これまたヒルダのときと同じようにくすくすと笑い始めた。

見ればヒルダも笑っている。

この二人は似ているとは思う。笑みの質こそ違っているが。

二人の笑顔はあまりにも自然で、周りの人々にも伝播する、そんな感じがした。

自然とも笑顔になった。


「笑わないでくださいよ」

「ふふ、そういうあなたも笑っているわ」

「そうですよ、お気付きですか?」


が笑いながら二人に文句を言うと、その両方が、これまた笑いながら言い返した。

胸に何か暖かいものがじんわりと広がるのを感じ、はほんの少しだけ笑みを深くした。





宿の仕事があるからと、ヒルダは洗濯場を後にした。

は洗濯を手伝うために残った。

盥と洗濯板という何とも懐かしい道具を使ってシーツを洗っていく。

花瓶を落としただけで特に汚れてもいないため、シーツの山もどんどん小さくなっていく。

ヨシノとは時折談笑しながら洗濯に勤しんだ。


「こんなに洗濯物があると大変じゃないですか?」

「大変です。でも、私は洗濯が好きですから」

「そうなんですか」

「ええ」


洗って絞り終えたシーツを勢いよく広げる。

パン、という音が不思議と心地よかった。

そばにいる兵士に手伝ってもらい、シーツを紐にかけていく。

面識のある兵士だった。大広間の扉の前で、そして今は洗濯場で。

お互いに顔を見合わせて苦笑した。



日もある程度高くなったようで、陽光が真上に近い位置から降り注いでいる。

朝方より深く濃くなった青色の空を見上げて眩しさに目を細める。

青と白のコントラストがとても爽やかだった。





ヨシノはやおら洗濯の手を止め、未だ立ったままのを見上げる。

もその視線に気がつき、ヨシノを見た。

何だろうと思って声を発そうとした時、ヨシノが口を開いた。



「何か悩んでいるのですか?」



は言葉を返すことができない。

ただ、目の前の人物を見つめた。


「ここへ来たときからずっと、どこか沈んでいるように見えます」


ヨシノは真剣な顔でに問う。


「私でよろしければ、話してくださいませんか?少しは楽になるかもしれません」


微笑んで言うヨシノに、は何ともいえない複雑な感情を抱いた。

――話していいのだろうか。

それが、ある意味危険なことであることは分かっていた。

いつ、どこで、誰が聞いているとも分からないのだ。迂闊に話をするのは危険だ。

――でも。

話したい。抱えるには大きすぎる重圧に押しつぶされてしまう前に。

今まで平和に暮らしてきたにとって、この世界は厳しすぎた。

殺さなければ、殺される。その事実の存在する世界。

たとえそれが現実でも、その言葉を否定してしまいたかった。



は辺りを見回し、気休めにもならないスパイ探しをして、ヨシノに向き直った。

そして、


「聞いてくれますか」


そう、言った。








洗濯を兵士に任せてとヨシノは湖のほとりに来た。

木陰を探し、そこに座り込む。

モンスターに遭遇する危険のある城の外に出ることをはためらったが、

あまり人に聞かれたくはないでしょうとのヨシノの言葉に頷き、

今はこうして湖のほとり、ヨシノの隣に座っている。


「怖いんです」


ゆっくりと、言葉を選びながら言う。


「たくさんのものが怖い。死ぬことが怖い。戦うことが怖い。傷つけることが怖い。傷つけられることが怖い。

――自分の力が怖い」


下を向いたまま、そこら辺の草を引き抜いた。

ふわりと土と草の香りが漂い、は顔を上にあげた。

そしてヨシノを見て言った。



「ヨシノさんは…ヨシノさんだったら、どう考えますか?

もし、もしも強い力を得て、でもそれが他人に知れたら自分だけじゃない、他の人にも迷惑がかかるとしたら」



ヨシノは黙っての方を向いた。

その顔に笑顔は既に無く、無表情にを見下ろしていた。

もまた下を向き、黙って記憶をたどっていた。

モンスターと戦闘になったときの、記憶。




あの時、自分はただひたすらに「生きたい」と願っていた。

「こんなところで死ぬのは嫌だ」、と。

そして何も分からぬままに紋章の力を使い、敵を倒した。

燃えていくそれらに酷く強い虚無感を覚えた。

目を背けたくて、でも背けられずに燃えていくさまを凝視して。


足が、震えていた。




俯いたままのの耳に、草を踏む音が聞こえる。

ヨシノは湖のほうへ一歩踏み出した。


さんは、自分が何のために戦っているのかを分かっていらっしゃいますか?」


ヨシノが聞いた。

は驚いてヨシノを見る。ヨシノは返答を待たずに続けた。


「私はフリード様と、そして自分のために戦っています」

「……」

「フリード様をお護りしたい。あの方のために戦いたい。後ろで見ているのは嫌でした。

私もあの方と同じ目線で、同じ世界を見たかったのです」


そこで言葉を切って、ヨシノは振り返ってしゃがみ、と視線を合わせる。

困ったような、悲しそうな微笑をたたえて。


「もしも私が強い力を得たら、迷わずフリード様のために使うでしょう。

たとえ誰に迷惑がかかろうとも、あの方の力になれるなら。……それは完全に私のエゴです。

でも、さん、あなたには」


ふわり、とヨシノの手がの肩に置かれた。

そしてが最初に見た、凛とした笑顔を浮かべて言う。


「まだ、時間はあるのですよ」

「…?」

「命を奪う奪わないの選択は、あなたが怖いと感じるもの全ては、いずれあなたの前にやってくるでしょう。

…貴方が平穏な生活を望まなければ、ですが」


この紋章を持った時点で、平穏は訪れはしないのだろうなと、根拠もなくそう思った。


「今はまだ、考えて、考えて、考えなさい。急ぐことはありません。

あなたの問題にはあなたしか答えられない。焦って間違える必要はどこにもないのです。

何のために戦うのか、その答えが出たとき、あなたの恐怖に答えが出ると……そう、思います」


は顔を歪める。泣きたい気がした。

夕日がヨシノの影を長く伸ばした。


「ありがとうございました」


搾り出すような声だった。ヨシノは悲しそうに笑う。


「いいえ。……ごめんなさい、なんの力にもなれなくて」


は首を振る。ヨシノの言葉は温かくに沁みていった。

彼女の言葉は嬉しかった。何かを許されたような気がした。





右手の甲に目をやる。何の文様も浮かんでいない、世界の力を束ねるモノ。


――猶予はあるのか?





頷くように、右手が熱を持った。















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2003.9.17
2006.6.28加筆修正

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