天球ディスターブ 30





走っていた。

『宝物』の手をしっかりと握って。

まだ小さい、彼の『宝物』は見慣れぬ風景に怯えて泣いているけれど、立ち止まるわけにはいかない。

――会わなければならない。

会って、理由を訊くのだ。何故なのか、どうしてその必要があったのか。

そうして、返答次第ではきっと。


「…おにいちゃん」


赤毛の少年は呟いた。











は目の前の青年を凝視した。

先程この男は自分のことを指して「異世界のお嬢さん」と言った。

誰にも話していないはずだ。――レオン以外には。

青年、ナッシュはの視線に苦笑して、その表情を傍らに立つ女性に向けた。


「少々このお嬢さんと話がしたいので、お借りしますよ。できたら夕食のときにでも呼んでください」

「ええ、分かりました」


そして、行こうか、との背を軽く押した。

されるがままには玄関に行き、屋敷の外に出て、中庭の噴水のところへ行く。


「どういうことですか?」


そこまできてやっと発言する。多分今の目線は険しい。

知識として彼が悪者でないことくらい分かっているが、それでもこの状況においては信用ができない。


「どういうこと、と言われてもな。君は異世界の人間なんだろ?あれ、違ったかな」

「いえ、違いませんが」

「そうだろうな。……ああ、何で俺が知ってるのかってことか?」

「はい」


ナッシュは顎に手を置いて考えるような仕草をした後、口を開いた。


「取引しようか」

「?」

「君は同盟軍なんだろ?その情報を少し分けてくれるだけでいい。そうしたら俺は君に何でも話そう」


その言葉にはしばし唖然とする。しかしすぐに気を取り直した。

ナッシュの言葉を反芻する。――返事など考えるまでもない。


「じゃあ、交渉決裂です」

「え?」


同盟軍にあまり良い思いがないとはいえ、ルックをはじめ、あそこには自分にとって大切な人たちがいる。

その人たちを危険な目に合わせることなど、誰がするものか。

喉まで出かかったその言葉をは飲み込んでナッシュを見据えた。


「へえ。いいのかい?俺は君の事情を知っている。言いふらしてもいいのかな?」

「それだって全ての事情を知っているわけではないですよね。一つ教えます。

――私にとって、記憶を消すことは、歩くよりも簡単なことなんです」


おそらく、と心の中で付け加える。

脅しに近い形になってしまったことに対して、ナッシュに申し訳なく思う。

すみませんと心中で何度も繰り返した。

フウ、と息をつく音が聞こえ、正面を見るとナッシュが両手を顔の高さまで上げて『降参』のポーズをしていた。


「……参った。記憶を消されるのはさすがに困る。分かった、話すよ。そもそも大した理由じゃないんだし」






噴水の淵に腰掛けて、ナッシュは話し出した。


「まあ、種明かしをしてしまうと、呆れるくらい簡単なんだけどな。……俺も、あの戦場にいたんだよ」

「あの戦場?」

「一週間前のやつ。君がここの息子を…その、なんだ。平たく言ってしまえば――その」

「殺めました」

「……すまない。傷を抉るようなこと言っちまったな」

「いえ」


言って、は瞑目する。

知人の死を受け止めることは――それも自分が殺した人の死を受け止めることは、予想以上に難しかった。

必死で踏ん張らなければすぐにでも後悔に飲み込まれてしまう。

しかし、だからといって放り出すわけにはいかないのだ。受け止めなければいけないとは思う。

そうでなければ逝った人々に失礼だし、成長は有り得ないと考えている。


「でも、ナッシュさんの姿は見ませんでした」

「そりゃあな、隠れてたから。これでも密偵に近い立場なんだ」

「よく、魔法に巻き込まれませんでしたね」

「………」


突然黙り込んだナッシュを疑問に思い、は少し眉を顰めて首を傾げる。

ナッシュはどこか遠くを見つめて呟いた。


「…三日三晩、かな……。治ったのは奇跡だそうだ」

「え、あ、ええと……すみません」


あはは、とナッシュは軽く笑い、立ち上がっての頭に手をのせた。

ポンポンと叩いて、くしゃくしゃに撫でる。


「?」

「…ここの息子と俺、結構仲良くてね。ホールで君たちが話しているのを聞いたとき、正直、許せなかった」

「………」

「母親がどうして君を許したのかも分からなかった。だから、君と会ったとき、少し刺々しかっただろ?」


はその言葉に頷く。

会う前から嫌われてしまったのかと、内心とてもショックだったのだ。


「ああ、君の事は嫌いじゃないよ。あいつの遺言でもあるし、許そうとも思う。だけど…益々分からないな」

「何がですか?」

「本当に、君があいつを殺したのかい?君にその必要性があるとは考えられないんだ。

もっと言うなら、何で君一人で軍を止めようと思ったのか、それも分からない。嫌われて、それでも尚。何故?」


ナッシュの言葉に、は口を開き、何かを言おうとして口を噤み、そして再び口を開いた。


「大切な人、いますか?」


突然のの質問にナッシュは一瞬目を見開き、しかしすぐに、どこか穏やかな顔になって言った。


「…ああ、まあね」


はその回答に微笑むことも眉を寄せることも何もせずに、また口を開いた。

――いや、このところ、感情をどこかに置き忘れてしまったようで上手く表情が作れないのだ。


「私も、大切な人がいます。同盟軍に。

だから戦う。手が血で染まろうとも大切な人を護れるのなら、それでもいいと、そう思ったんです」

「…無理をしているんじゃないのか?」

「分かりません。ただ、戦争が終わるまでは、どんなにきつくても辛くても、立ち止まれないんだろうな、とは」

「俺に言わせれば、君は少し立ち止まったほうがいいように思えるんだけどな」


今度はが驚く番だった。

立ち止まっても良いなどという言葉は、滅多に言われない。

ルックたちも自分のことを心配はしてくれるが、事情を話していないため、それは概ね体調についてであった。

は久方ぶりに苦笑以外の笑みを漏らした。


「ありがとうございます。でもやっぱり、戦争が終わるまではなるべく立ち止まらないようにします」


実を言うと、立ち止まり方を忘れてしまったようなのだ。立ち止まるとはどんなことなのか分からなくなった。

しかし例え方法を思い出したとしても、きっと立ち止まれないだろうと思う。

なぜなら――非常に哀しいことではあるが――立ち止まったときに休める場所を、自分は持っていないから。

休むだけならヨシノやヒルダの所に行けば良い。しかし、頼れる人というものをは持っていなかった。



もっと正確に言うなら、は「この人には頼っていいのだ」と言える人を知らなかった。

迷惑をかけない、そのことが真っ先に思考の先端にくるからだった。






そのあとはしばらくお互いに無言になり、そろそろ戻ろうかとナッシュが提案した矢先に女性が呼びに来た。

夕食までご馳走になるわけにはと思ったのだが、女性の希望であるしナッシュの勧めもあって、結局折れた。

少女はという『外の人間』に興味津々で、いろいろと質問をしてくる。


「お姉ちゃんのお名前は?」

だよ」

「あのね、エルはね、ナタナエルって名前なのよ」

「…ナタナエルちゃん?」

「んーん、エル」

「?」


くす、と女性が笑う。


「本当はナタナエルという名前なのですけれど、長いのでエルと呼んでいるんですよ」

「そうなんですか。エルちゃん、と呼んでいいのかな」

「うん!」


聞いたところナタナエルはまだ2歳であるとのことだったが、なかなかに賢い子供だと思った。

小さな子供にあまり接する機会が無かったので、他の2歳児がどのようなものなのかは知らない。

しかしそれでも、この少女は賢いのだと、何故か思った。



本来ならば喪に服すべきところだが、ナッシュと自分がいるので翌日に延ばすのだと言っていた。

夕食は流石に豪勢だった。

専任の料理人がいるのだろうかとは考える。

ナッシュはラトキエ家の食事マナーである、『皆で楽しく』を実行し、食事はとても楽しいものだった。

しかしは当然のように引け目を感じていたのであまり笑うことはなかった。


女性の顔が寂しそうだということには気づいていた。







あれよあれよという間に話はの宿泊のことにまで及び、

内心とても申し訳なくなりつつ、は女性の申し出を、これまたナッシュの勧めもあって承諾した。

あてがわれた部屋は広く、内装も格調高く落ち着いていて、どこか安心できる雰囲気を持っていた。

部屋の真ん中に立ち、窓から見える月を見据える。

青白い光が部屋を照らしている。ランプは点けていない。


「――ごめん」


言葉が口から零れ落ちる。それと同時に、胸がとても苦しくなった。

とにかく謝りたかった。謝ったら全てが終わると心のどこかで思っているのかもしれない。


「ごめん」


楽になりたいと思っているのかもしれない。心が重圧に悲鳴を上げているのかもしれない。


「ご…」


不自然に言葉を切る。これ以上言うことは許さない。どんなに楽になりたくとも許してやらない。

―――謝って許してもらおうなんてこと、許さない。



心底、奪った命を背負えるだけの器がほしいと思った。











日の光が窓から差し込み、目に直射して目が覚めた。

そういえばこれは無断外泊なのだなと思い至り、帰ってからシュウに怒られるのだろうかと危惧したが、

自分は誰にも行き先を告げなかったし、それ以前に誰にも知らせずに来たので彼は気づいていないだろう。

コンコン、と控えめなノックの音がしてドア越しに声が聞こえてくる。


「お目覚めでしょうか?朝食の用意はできていますので、お好きなときにいらしてください」

「ありがとうございます」


寝起きの声は最悪なほど嗄れていた。






緩やかな螺旋を描く階段を下りるとホールに出る。

そこから一番大きな両開きの扉をくぐると食堂だ。


「あー、おねえちゃん!」

「おはよう、エルちゃん」

「おはようござーます!あのね、エルはハチミツが好きよ」


会話が微妙にかみ合わないのは仕方が無い。弁達者であるとはいえ、ナタナエルは2歳児である。


「結構遅かったな」

「…すみません」

「い、いやいや!責めてるんじゃなくて、何と言うか、その…」

「ニュアンスで読み取ります」

「……そうしてくれ」


焼きたてのクロワッサンとハムエッグ(というものなのだろうか)の朝食を頬張る。

ラトキエ家の食事マナーはナタナエルに伝授されたようで、彼女はいまやハムスター状態だ。


「ねー」


その状態で話しかけてくるのだから、見ている側はいつ食物が口からこぼれないかとハラハラものだ。

はおっかなびっくり、応える。


「何?」

「おねえちゃん、いつまでいるの?」

「…これを食べたら帰るよ」

「そうなのですか?もう少し滞在していかれては?」


女性が驚いて言う。


「いえ、そろそろ復帰しないといけないので」


諜報員兼軍主護衛である以上は、その役目を果たしたいと思う。

この家にとっては非常に気まずいことだが、自分は同盟軍の一員である。一部には認められていないが。


「えー?おはなししたいよ、遊ぼうよ」

「ごめんね」

「ぶー…」

「というか、どうやってここまで来たんだ?ルルノイエに入るのは並大抵のことじゃ出来なかっただろう?」


もっともな疑問だ。


「ああ、テレポートです。正面からは流石に入れません。軍師と知将猛将に顔が割れてますし」

「顔広いなあ…」

「悪い方向にですけどね」







屋敷の前で女性とナタナエルとナッシュに見送られる。


「また、いつでもいらしてください」

「ばいばーい」


それには微かに、本当に微かにだが微笑んだ、と思う。自分ではやはり分からない。

ナタナエルに手を振り返し、歩き出そうと背を向け――


「――――っ」


自分でも何故振り向いたのかよく分からなかった。

ただ、振り返って、女性に何事かを告げたかった。



女性は黙って、困ったような、寂しそうな笑顔を浮かべ、人差し指を唇に当てて首を横に振った。











そのあとはただ、女性の仕草に何かを削がれたような気がして、振り向くことはせずにその場から消えた。

テレポートした先は同盟軍本拠地の洗濯場の一角だった。何故ここなのかは知らない。

鳥の声が高く高く響き、抜けるような青空に溶け込んでいく。

白い洗濯物がパタパタと揺れている。朝なので洗い立てで、香り良い。


「―――」

「―――」


遠くで人の話し声がする。

思わずそちらの方を見ると、ヨシノとヒルダが華やかに笑っていた。とても戦争中とは思えない、その光景。

は唇の端を上げて、彼女らに背を向けた。







無骨な石の廊下は意外と足音が響かない。響くのは磨き上げられた床のみだ。

軍主の部屋から一番遠い兵隊居住区。何度かシュウが部屋を移そうと提案してくれたが、構わないと思う。

ここはここなりに良いところがある。部屋が高い位置にあるので眺めが良いだとか。

悪いところをあげれば――突然拉致されて牢屋に放り込まれたことくらいだろうか。

だが、それ以来は『この居住区で』そのようなことはない。(むしろ中心部での方が多い)




部屋に近づいて、ふと子供の声がするのに気づく。

泣き声と、それをなだめるような声。

自室に近づくにつれてそれはだんだんと大きく、はっきりしていった。


「…私の部屋?」


部屋の扉の前で立ち止まり、中の声に耳を澄ます。


『泣き止めって』

『やー!帰るー!』

『すぐに帰るってば!理由を訊きに来ただけなんだから。…こら、シーザー!』


は勢いよく扉を開けた。

少年の視線がに注がれる。




「…………やっと帰ってきた。あなたのせいですよ。シーザーをなだめるの、大変だったんですから」




赤毛の少年――アルベルトが、恨めしそうにを見た。















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2004.11.2
2006.9.15加筆修正

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