天球ディスターブ 2-14



 ユンについてが知っていることは多くない。まだあどけない少女だということ、門の紋章の継承者で、『口寄せの子』と呼ばれていること。常にどこか超然とした態度をみせているが、時折年相応の不安定さが垣間見え――その時だけは、少しだけ寂しそうに見えること。

 そんなユンの両目からは、堰を切ったように大粒の涙が溢れ出している。
 嗚咽を上げる少女は途切れ途切れに言葉を紡いだ。

「どうして、こんな力があるんですか」
「…………」
「嫌です、こんな未来、いや。誰かが傷つけられて、傷つけて、その繰り返しばかり。誰にも死んで欲しくない、生きて、笑って欲しいんです。同胞が傷つけあうだけの未来なんていらない、いらないのに……」

 そう言って目を伏せ、衝動に突き動かされるようにしてユンは訴え続ける。
 未来を視続ける彼女は、それが決して変わることのないものなのだと誰よりも理解しながら、それでも良いとはいえないものについては、何とか回避しようとしていたのだという。村の大人に働きかけ、各クランに停戦を提案することでゼクセンとの戦争を避けようともしたそうだが――結果は、が体験した通りであった。戦争は起こり、イクセ村は焼き払われた。
 そこで、伝令としてグラスランド中央部まで出向いていたアルマ・キナンの戦士は、防げないのならせめて、とユンから同時に言い渡されていた任務――『異世界人の確保』を遂行したのだった。

「……こんな、五十年前の繰り返しのような……たとえ精霊の導きだとしても――あんまりです」

 そう言って再びしゃくりあげる少女をどう扱って良いか分からず、迷った末、はおそるおそる彼女の頭に手を伸ばし、ゆっくりと、宥めるように撫でる。
 それでもユンの状態が変わることはなかったので、眉尻を下げた、その果てに。
 壊れ物を扱うかのようにそっと抱きしめた。そのままトン、トンと背中を軽く叩いていく。

 実のところ、は単純に、心の底から困っていた。ユンの泣き方が、今まで見てきた涙のどれにも当てはまらなかったからである。
 自分の身を哀れんでいるのではない。他者を悼んでいるのでもない。本能に従っているわけでもない。
 ただただ、己の意思と憤りを力の限り主張しているのだ。涙は付随品でしかない。
 だから困惑した。泣き止ませるべきなのか、泣かせ続けたほうが――叫ばせたほうが良いのか。
 けれども心情的には、泣き止んで欲しいことも確かだった。
 何故だか、泣いているユンの姿がハルモニアに残してきた少女と重なったのだ。

「……!」

 ユンの肩が一瞬、震える。次いでぎこちなく体を揺らし、戸惑いを全身で伝えてきた。
 で、ふと、この行為にいつかのルックを重ね、奇妙な感慨を抱いていた。
 あの時自分は泣いていなかったから、抱きしめた意味は違うのだろうけれど――

 何故抱きしめる必要があったのか。
 どうして助けてくれたのか。
 どこにいるのか。
 何をしているのか。
 どこへ向かうのか。
 何を為すのか。
 ――知りたい。
 ――会いたい。
 そして。

 ――これは、ただの好奇心か、それとも――。
 
「そろそろ離してやってくれないか」

 思考の渦は、困惑をにじませた声に遮られる。耳に心地よいアルトの主が、の肩をやんわりと掴んでユンから引き離した。既に泣き止んでいたらしいユンがハッとした表情で名前を呼ぶ。

「――ユイリ」
「ユン、客人。じきに陽が落ちる。村の入り口とはいえ、ここは結界の外だ。何があるとも限らん。中へ」
「そう……そうね。……さん」

 ユイリに肩を抱かれ、村へと向かう斜面をくだりかけたユンは、不意にの方に振り向いた。
 真っ直ぐに向けられたはずの視線が、迷うように幾度か揺れる。結局、眼が合わせられることはなく、はぼんやりと少女の黒髪に目を落とした。

「…………また、明日。貴女に、お話しすることがあります」

 その言葉に、は答えることができなかった。





 アルマ・キナンの村――全てが木で造られた建物の中に、周囲よりもやや大きな家が三つある。
 村の奥まったところに建つそれは、それぞれが役割を持っている。中央は『口寄せの子』であるユンの住む家、隣の一つは族長――アルマ・キナンに族長は存在しないため、厳密には『リーダー的存在』にとどまる――のユイリが控える場、そして最後の一軒には、ユイリの補佐であるユミィが生活している。

 は村に来たときと同じように、ユミィの家の客室で休んでいた。彼女と共に夕食を摂り、すすめられるままベッドに入る。麻布のシーツは野宿していた頃に比べれば非常に上等な寝具であるといえたが、それでも人生における睡眠の大半を肌触りのいい布地に包まれ過ごしてきたにとって、寝心地のいいものではなかった。

 夜半、はふと目を覚ました。時計が無いため正確な時間は分からないが、少なくとも夜明けですらないのだと分かるくらいに室内は真っ暗だ。だが二度寝しようにも完全に覚醒してしまったのか、なかなか寝付けない。十回ほど寝返りを繰り返したところでようやく諦め、目前に広がる闇をただ見つめると、目が慣れるのをじっと待つことにした。
 開け放した窓から入った風がカーテンを揺らしているのだろう。さわさわと静かな音が響く。
 皆寝静まっているのか、時折虫の声が聞こえる以外は微かな葉擦れが届くのみだ。酒場のざわめきも、幼子の夜泣きも、まして刃を交える音など存在しない。侍女が見回りする足音も、神殿の兵士が巡回する金属音も、遠くから聞こえる車やバイクの音、朝刊が投函される物音も――何一つ、存在しない。
 にわかに、妙な焦燥感と不安を抱いたは、とにかく一旦外に出ることにした。ゆっくり体を起こすと靴を履き、壁に手を付きながら窓へ寄って、一瞬躊躇した後、木枠を乗り越える。慣れない家で暗闇の中を動き回ってドアを探すよりも手っ取り早いと考えたのである。
 だが、森林に存在する村という特性上、湿気から家を守るために床下を高くとっているアルマ・キナンの家は、そんなに容赦がなかった。

「……っ、う……」

 木枠にぶら下がっても地に足が付かなかったは、家の外観を思い返し、さほど地面と距離があるわけではないだろうという予想のもとに手を放したが、落ちていた枝と枯葉に足をとられて結局地面に転がった。背中と肩に鈍い痛みが走る。地に手を付けば、湿った土の感触が伝わった。
 ゆるゆると上体を起こしたが見たものは、思いのほか遠くに揺らめく一対の小さな炎だった。
 獣除けに焚かれているという、村の入り口に備えられた松明だ。それ以外に明かりのない夜は、驚くほど暗い。もともと茂る木々の中に作られた村なので、月や星は微かな光の恩寵すら与えてくれないらしい。背後には今しがた出たばかりの家があるはずなのに、振り仰いでも何も見えなかった。
 急いで立ち上がると手探りで家の外壁に身を寄せ、それを伝って玄関扉の前にある階段を探し出した。そこに座り込んで膝を抱え、体を小さく折りたたんでしまえば、得体の知れない恐怖も少しは落ち着く。

――本当に、なにも出来ないんだな

 両手を握り締めると、微かに土の匂いが漂う。きっと、寝巻きも靴も汚れているのだろう。まるで己の非力さをこれでもかと眼前に突きつけられているかのようで、は小さく呻いた。――いや。
 はっきりと、絶望的なほど、無力であった。

 以前のは、窓から出るのに何の躊躇いも感じなかっただろう。落下の心配が皆無だったからだ。
――浮けばよかったし
 光のない夜だって、不安に思ったことはなかった。
――明かりはいつでも傍に出していたから
 知らない土地などないと思っていた。
――どんなところへだって行くことが出来た。世界は――

 世界は――天球は、いつだって、望むまま道を開いた。

 それがどんなに傲慢なことだったのか、今は痛いほど分かる。
 平和を求め、理不尽に抗い、暴虐を退けてきた人々の傍らで、己こそが醜悪な力の権化であったのだと思い知らされる。
――それでも。……それでも

 は、松明を睨み付けた。ゆらゆらと頼りなく揺れる炎を無性に消したくなった。もっと強い光が欲しい。弱い炎をかき消して、燃え盛る大火を掲げれば、曖昧模糊としている足元も見える気がするのに。

――力が欲しい

 自分の身を守る力が欲しい。目の前の何かを助ける力が欲しい。大切なものを救う力が欲しい。全てを変えてしまえるだけの力が――ただただ、欲しかった。
 


 どのくらいの時間座っているのか、だんだん分からなくなってきた頃。
 暗闇に焦点を合わせ、小さな炎の輪郭からピントを外した時、の目の前に小さな異物が現れた。

「……?」

 『それ』は白い光を放っているようであったが、かといって周囲を照らし出しているわけでもなかった。一面真っ黒の画用紙に白い絵の具を零したような歪さがある。目を凝らし正体を見極めようとするが、距離が遠いのかよく見えない。
 立ち上がり、近づこうとしたは、ふと、『それ』が危険なものであったら、と考え立ち止まった。
 じっと見つめてみる。白い物体は、微かに揺れているようだった。不思議と嫌悪感や恐怖は感じず、誘われるようにして階段を降りる。少しずつ近づいてきた『それ』の輪郭が認識できるまでになったとき、は思わず、先程までの警戒を忘れたかのように走り出した。

 合わせる様に方向を変えた『それ』を追いかける。
 幾度か躓き、枯葉に滑り、そこここに積んであるらしい木材にぶつかった。ぶつけたときに擦った左手が痛むので、もしかしたら血が出ているかもしれない。しかし、構っている暇はない。
 追いかけなければならない。
 手を伸ばし、掴まなければならない。
 なぜなら――

「ルック……っ!」

 『それ』が、求めている人の形をしているからだ。

 慣れない全力疾走に息が切れる。肺にうまく酸素が送り込めていないのか、何度呼吸をしても苦しさがおさまらない。ひっきりなしに通り抜ける風に、気管が収縮してしまったような気すらする。
 四肢を動かすのが億劫になり、ぶらぶらと揺れるばかりの両腕が体のバランスを崩していく。
 足がもつれ、倒れこみ、けれどはその度に立ち上がって、ルックの形をした物体の背中を追った。

 暗闇の中を追いかけて、追いかけて、追いかけて――

 ――突然、目の前に景色が広がった。

 周囲を木々に囲まれた広場である。
 一対の巨木が絡ませ合っている太い根が小高い丘のように盛り上がっており、その頂点に苔むした祭壇、あるいは墓としか形容できない、人の手が加えられた巨石が聳えている。
 目を見開いたは、荒い呼吸を繰り返しながら、酸欠に震える唇を動かした。

「……ここは」

 水の祭壇、と言いかけたところで、一陣の風が視界を遮った。



『――本当に封印したのか?』
「……!?」
『ああ。まあ、まだ半分はここにあるんだが』

 は目前の光景に目を疑った。
 突然現れた男が三人、に背を向けて話をしている。彼らが見上げているのは先程までも見ていた祭壇であるが、それが、苔も、絡まる蔦もない、妙に小奇麗なものになっている。
 周囲の薄暗さに変わりはないものの、どことなく霞がかり、ぼんやりとした印象を受ける。
 男達はに気付いた風もなく、話し続けていた。

『……お前は、いつ』
『そろそろやるつもりだ。サナとの結婚までには終わらせておきたいからな』
『……そうか』
『ゲドは、やっぱり宿し続けるのか?』

 ゲドと呼ばれた黒髪に黒い服の男は、その問いかけに頷くことで答えた。
 「そうか」と、彼に問いかけた真ん中の青年が呟く。こちらは赤を基調とした衣装に、棍を持っている。
 青年が目に見えて消沈した横で、青い軍服を纏った褐色の肌の男が、笑いながら青年を小突いた。

『紋章をどうするかは自由だろう。とりあえず、俺とお前が封印することで、五行の暴走は抑えられる』
『それは、そうなんだが。ゲドの負担が大きすぎやしないか?』
『……使う気がないからな。気にしていない』

 青年はゲドの言葉に、納得がいかないというように非難めいた顔を向けた。その横顔を、は見る。
 三人が何者なのか、すでに検討は付いていた。

 棍を持った青年は、炎の英雄。両隣の男はそれぞれゲドとワイアット。
 三人とも真の紋章を宿す人物である。
 眼前に聳える『水の祭壇』と先ほどの会話から察するに、ワイアットは自身の宿す『真なる水の紋章』に封印を施したようだ。そして炎の英雄は婚姻前に封印するつもりで、今後も宿し続けるというゲドのことが不満らしい。とめどなく続く会話を聞きながら、は必死に情報を整理していた。

 真の紋章はそれぞれが意思を持っており、宿主の精神に干渉することで強大な力を行使させようとする。なかでも五行を司る火・水・雷・風・土の五つはそれが顕著で、睡眠時に見る夢や白昼夢、果ては幻覚に至るまで、ありとあらゆる手を使って暴走を促すのだという。眼前の三名も例外ではなく、特に炎の英雄は戦争――ハルモニア神聖国とグラスランド部族との間に勃発した独立戦争――の最中、真なる火の紋章を暴発させ、相手だけではなく自軍すら壊滅させるという経験をしている。
 戦争終結後、その暴走を疎み、また、宿主に課せられる不老の呪いを忌避し愛するものと同じ時間を過ごしたいと願った炎の英雄とワイアットは紋章を手離すことを決める。しかしもう一人の宿主であるゲドは紋章を宿し続けることを選んだのだった。

 ある程度整理したところでは息をついた。ゲドが紋章を手離さない理由は目の前の会話では分からなかったが、その他の情報は大部分が己の知識と合致している。すなわち、世界の大筋は変わっていないのだ――繰り広げられる『過去』の時点では。

 は足元に目を落とし、雑草を蹴る。靴は目標物をすり抜け、虚空を切った。
 思わずため息が零れる。炎の英雄は五十年前にグラスランドで活躍した人間だ。これまで色々と非常識な体験をしてきた自覚はあったが、まさか過去を見ることになるとは思っていなかった。
 気付けば先程まで追いかけていたルックの姿もない。状況を打破する手立ても思い浮かばず、はこの『過去』に目を向け、引き続き情報の獲得に専念するべく頭を切り替えた。

『雷の暴走が起こったらどうするんだ。俺の暴走を見ただろう、洒落では済まされないんだぞ』

 炎の英雄が語調を強める。本気で心配しているのだと、眉根を寄せた横顔が物語っていた。

『そこは俺も心配している。ゲド、どうなんだ?』

 ワイアットがそれに同調し、神妙に問いかけた。ゲドは少し考えてから口を開く。

『……問題ない。アイツに話をつけてある』
『アイツって……アイツか』
『ああ』

 アイツ、というのが誰のことなのかは分からないが、考え込むように手を顎に当て、「それなら……」と渋々引き下がる炎の英雄の姿を見るに、真の紋章、あるいはその制御に精通している人物なのだろう。
 そこまで考えたところで、の後ろから声がかかった。

『安心して。力の一部を抑えたから、滅多なことじゃ暴走しないよ。紋章の記憶までは消せなかったけど』

 驚いて振り向いたが見たものは、暗い木立の中から歩み出る人物であった。濃紺のフード付きローブを目深に羽織った人物は、声で男性と分かるものの、顔形までは分からない。
 は首を傾げた。『炎の英雄』の周囲の人間にしては、己の記憶にない人物だからだ。
 フードの人物は明るい調子で言葉を紡ぐ。声のトーンを聞くに、どうやら年若い青年のようだった。

『もー、俺ハルモニアですっごく頑張ってきたの。褒めてよ』
『お疲れ。……どうだった?』
『とりあえず、風と土の<器>の研究を滅茶苦茶に破壊してきた。多分これであと数十年は保つね』
『紋章を手に入れることはできなかったのか』

 ゲドが少し強めに問いかける。フードの青年は肩を竦めた。

『円の宮殿の警備って半端ないんだよ。紋章なんか奥の奥だしさ。さすがにそこまではムリ。あ、でも』

 気になることはあったかな、と続け、三人に歩み寄る青年の肩をワイアットが叩いた。

『何にせよ、お前が無事で何よりだ』
『うう……ワイアットだけだよ、優しいの。……あ、それで、気になったことなんだけどさ』

 そこで青年は一度言葉を切り、炎の英雄を正面から見た。

『炎の<器>が成長し始めてた』
『なっ……!?』

 の位置からは炎の英雄の顔は見えるが、フードの人物については背中しか見えない。だから声の調子から判断するしかないのだが、どうも青年は、「気になったこと」を非常に重く捕らえているようだった。炎の英雄の方も驚きに目を丸くしている。

『俺も驚いたよ。<器>って、紋章がないと成長しないものだと思ってたから。……俺たちが考えているよりも、ハルモニアの研究は進んでいるみたいだ。真なる炎の紋章もかなり本気で狙われてる。休戦協定が生きている間は大丈夫のはずだけど、気をつけて』

 ワイアットが、絶句した炎の英雄に代わって疑問を投げかける。

『……<器>は、これからも成長するのか』
『分からない。本当に、研究棟の破壊だけで手一杯でさ。……ああ、見た感じ風と土の方は炎とは違う手法みたいだから大丈夫だと思う。……俺がもっと紋章を使いこなせてたら良かったんだけど』
『いや、お前は十分以上にやってくれている。負担を掛けてすまなかった。』
『いいよ、多分、俺にしかできなかったし』
『……怪我は?』
『擦り剥いた程度だから大丈夫』

 そう言って青年は朗らかに笑う。ゲドが溜息を吐いて、青年に近づくとフードの上から軽く頭を叩いた。ワイアットも笑って労わりの言葉を口にし、気を取り直したらしい炎の英雄は青年の肩に腕を回して笑みを浮かべた。

『まあ、今ここで考えても解決しないよな。ワイアットに先越されたけど……おかえり』
『……ただいま』

 二人の笑い声が小さく響くのと同時に、周囲の景色がより曖昧にぼやけていく。四人の姿も、少しずつ遠ざかるように収束しつつある。『過去』が終わるのだと、直感的に理解した。
 辺りに視線をやりながらその現象を眺めていたの耳に、最後の言葉が届く。

『それにしても……天球の紋章でもここまで手こずるとは……』

 目を見開いたが振り向いたとき、そこにあったのは古びた祭壇と、より鮮明になった森の姿だけだった。



 ――天球の紋章、と確かに言っていた。
 は、もとの薄暗さを取り戻した祭壇の広場で考え込む。
 聞き間違いではないだろう。――その言葉だけは、聞き間違えるはずがない。会話の流れから察すると、フードの青年が天球の紋章の宿主ということになる。
 つまり、彼はに紋章が宿る『以前』の宿主だということだ。

「……確かに、天球の紋章が十五年前に突然生まれたとは思っていないけど」

 胸のうちの動揺を鎮めるために敢えて声に出せば、いくらか落ち着いたような気分になった。
 そう、天球の紋章の存在自体は、別の人物からも示唆されていた。
 真なる月の紋章の継承者、シエラだ。
 彼女は確か三、四十年前――今で言うと四十五から五十五年前に天球の宿主に会ったのだと言っていた。それがあの青年のことならば、辻褄が合う。

 天球の紋章には、に宿る前にも宿主がいた。それはいい。当然ともいえる。ただ――

 ――何故、紋章はに移ったのか。

 それはつまり、フードの青年が宿主でなくなったということを示している。自分から紋章を手放したのか、はたまた死亡したのか。どちらにせよ今のに事情を知る術はないが、酷く残念ではあった。
 彼は、と同じ『異世界の人間』なのだとシエラが言っていたのを思い出したからだ。
 できることなら会って話をしたかった。還る術はないか聞いてみたかった。
 しかし、全ては後の祭りである。

 は俯き、次いで祭壇を見上げる。記憶が確かならば、この『水の祭壇』は、真なる水の紋章の封印を解くための『鍵』であり、ユンが命を賭して開錠しようとしている対象だ。
 両脇に鎮座する巨木の根をどうにかよじ登って祭壇の前まで来たは、身長の何倍もあるそれに手を這わせた。しっとりと湿った苔の感触が手のひらに伝わる。
 ふと、自分の影が祭壇に映し出されているのに気付いて頭上を見る。丁度森の木々が被らない位置に月があり、村の中よりも周囲が見えているのはそのせいなのだと理解した。

「……ここは村人以外立ち入り禁止だ、客人」

 静かな、それでいて威圧感のある声が広場に響く。
 背後を振り返り、見下ろすと、見知った顔の女性が広場の中央に立っていた。ボウガンを番え、に向けている。

「すみません」

 両手を挙げて謝罪するに、女性――ユイリは深く嘆息した。

「ユミィが心配していた。お前がいなくなったと」
「…………すみません」
「何故この場所にいる? 返答次第では、私はお前を傷つけなければならないが」

 物騒な物言いに、思わず肩が跳ねる。そんな様子のに何を思ったのか、ユイリは再び息を吐くとボウガンを降ろした。

「半分嘘だ。客人であるお前に手荒な真似はしない。だが事情は話してもらおう。ここは特別な場だから」
「あ――はい。多分……隠すようなことではないので」
「そうか」
「とにかく、そちらに戻ります」

 言って、は木の根を伝って祭壇から降りる。ふと、幼い頃に遊んだアスレチックを思い出したが、難易度はこちらの方が段違いに高い。足を掛けようにも曲線を描く根は安定する場所がないのである。幾度か滑り、最後には転げ落ちるように着地したに、ユイリが幾分心配そうに声をかけた。

「……大丈夫か」
「はい。……運動神経は特に悪くないはずなんですが」

 調子が悪いみたいです、と無表情で言ってのけたに、呆れたような表情のユイリが手を差し伸べる。もちろんも本気で言ったわけではない。警戒以外の表情が引き出せたのなら上々だった。

 手をかりて立ち上がり、汚れきった寝巻きを申し訳程度にはたいてから、は口を開いた。




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2013.6.19
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