天球ディスターブ 23





長い長い廊下をひた走る。

何度も振り返り、そのたびに追っ手との距離が縮まっているのを知り、鼓動が早くなるのを感じた。

まるで水の中を走っているように前に進めない。

陸の上を走る追っ手が近づいてくる。

動けと念じれども思うように動かない自分の体を叱責するが何も変わらない。

振り返ると、後数秒で捕まるだろう、そんな距離だった。

は小さく声を呑む。


それは、純粋な恐怖。





足がもつれそうになる。

は装飾品と一緒に置いてある花瓶を掴み、後ろに放り投げた。

無論、目的は攻撃ではなくて単なる足止めだ。

少しの時間でいい、少しでも驚いてくれればいい。

思惑は的中し、シードとクルガンは一瞬怯んだようだった。

が、彼らとて軍人。こんな物に足を取られたりはしない。





紋章を使おうと思った。

しかし集中が出来ない。何せ命が掛かっている。切迫しているのだ。

普段あまり頼らないようにと自分で言ったのに、決めたのに、使いたいときに使えない。

なんという。

なんという、もどかしさだ。

は唇を噛み、表情を険しくさせる。

もどかしさと破壊衝動は、自分にとってはどうやら紙一重らしい。


「壊れてしまえ!」


思わず呟いた後にはっとして口を塞ぐ。しかし遅かった。





パァン、と何かがはじける音がして、横から――窓のあるほうから強い風が吹いた。

そこにもはやガラスはなく、足元に太陽の光を浴びてキラキラと光る残骸があるだけだった。

ツ、と頬に温かいものが流れる。破片で切ったようだ。

シード達のほうを見ると、彼らも驚いているらしく、立ち止まって窓を見ていた。

訳が分からなかった。ただ、自分がしたのであろうことは漠然と理解した。

今は逃げるのが先決だと思い、彼らが呆然としている間に少しでも距離を広げようと走り出した。



無駄なことだとは分かっていたのに。






「…っ!」


突き当たりにさしかかって、は息を飲んだ。

目の前に扉があり、おそらくその向こうにはまた廊下があるだろう。

だがには扉を開ける時間さえ残されていなかった。


「大人しくしといたほうが長生きできると思うぜ?」


首筋に氷のように冷たい刃が触れる。

その感触があまりにもリアルで恐ろしく、は今自分の立っている、ここが現実であることを理解する。

心のどこかで、ここは現実世界ではないのだと思っていた、否、思いたがっていた自分がいた。

しかしそれでも、この世界の現実性を否定する自分はいる。


「…一緒に来てもらおうか」


クルガンがの両手首を片手で掴む。

は右手に目をやる。

先程のガラスは紋章の力で割られたのだろう。

強く思わずとも、言葉にするだけで紋章の力を引き出せるというのなら。集中しなくてもいいのだとしたら。

――命じるだけで、いいのだとしたら。


「歩け」


シードに背中をゆるく押される。

は右手を凝視する。手の甲が頷くようにほのかに熱を持った。


「…?どうした」


クルガンがかすかに首を傾げる。

は口を開いた。


「捕まるわけには行かないので逃げます。すみません」


そして二人を見上げる。


「閃光に目を眩ませてください」


言葉にした瞬間に紋章が光り、手首を掴む力が弱まる。はもう一度言葉を発した。


「どこか、安全なところ!」


光が収まった後には、知将猛将が所在なさげに立っているばかりであった。











足が固い床につく。目の前に石の壁がある。

鼻につく、これは、獣の匂い。唸り声も聞こえる。なんだ。これはなんだ。ここはどこだ。

低い低い唸り声がする。振り向きたくない。

だが、振り向かねば。

ゆっくりと振り向く。

手が震えていた。

そして。


「グルル…」


目の前にいるのは金色の狼。

どうやら自分はこの獣の檻にいるらしかった。





足が震えている。

無意識のうちに後ろ手で石の壁に触れる。

何かに触れ、それを拠り所とすることで安堵感を得ようとしたのかもしれない。

10匹ほどの狼たちはそれぞれ黙ってを見つめる。

そのうち、ひときわ体の大きい一匹がの前に歩み寄り、その身を伏せた。


「?」


伏せた狼に続くようにして他の狼たちも伏せる。


「一体どういう」

「誰か中にいるのか!?」


突然聞こえた声に、は牢の外側を見た。

白い服、銀の長い髪を後ろで束ねている。


「――君は確か、グリンヒルで会った…?」


は深く息を吐いた。


「…うん、久しぶり」





「何で君がここに…?」


いつまでも檻にいたのでは気が休まらないからと、はテレポートで外に出る。


「話はすごく短いんだけど、話したら私が不利だから」

「もしかしてスパイ?」

「………」

「え…。……当たったの?」

「………うん」


ジョウイは額に手を当てた。必死で現状を把握しようとしているようだ。

そして何か疑問でも浮かんだのか、ふっと手を離すとの方に向いた。


「逃げなくていいのかい?スパイが顔を見られたらやばいんじゃあ」

「敵に逃げることを進言する人も珍しいと思う。うん、何でだろう。知将猛将のときは必死で逃げてたのに」


それは自身にも分からないことだった。

今はおそらく逃げることが最善といえる状況なのに、自分は何故逃げないのだろうか。

何故、逃げる意思が湧いてこないのか。


「何でだろう」


多分自分は傲慢にも、ジョウイは自分を殺さないと思っている。

だがそれ以上に、


「ああ、そうか。うん、ジョウイと話してみたかったんだ。それだけ」

「僕と話す?何でだい?」

「なんとなく」


自分は「ジョウイ」という「キャラ」を好いていた。だから、会って話をしたかった。

こんな失礼極まりない理由を言えるはずもない。


「ジョウイはどうして私を捕らえないの?」


ジョウイはかすかに微笑んで言った。


「たった今理由ができたよ。僕と話をしにきたというのなら、君は僕の客人だからね。

捕らえるわけにはいかない。

それに、僕も君にもう一度会って話をしたかった」











ジョウイの部屋は城の最上階のひとつ下の階に位置する。

地位が高い証拠である。


「散らかってるけど、どうぞ」

「あ、おかまいなく」

「紅茶とコーヒー、どっちが好き?」

「紅茶で」


広い部屋にはやたらと衣装が散らばっている。

どれも礼服のようだ。


「式典の準備か何か?」

「ああ、うん。…結婚式がね」

「だれの?」

「僕の」

「…本当?」

「本当だよ」


お茶の準備をするジョウイを横目に見ながら、は記憶を掘り起こす。

そしてすぐにルルノイエの皇女ジルのことを思い出した。


「あー、えっと。もしかして皇女様と?」

「よく分かったね」

「というより、それ以外になかったというか」


紅茶を入れてきたジョウイが、に椅子をすすめる。

マホガニーの大テーブルにも似た大きなテーブルにと自分、二人分のカップを置く。

ジョウイは向かい側に座って、苦笑気味に微笑んだ。


「改めて、久しぶり」

「うん、久しぶり」


言って、は紅茶のカップに口をつける。淹れたての紅茶はとても熱かった。


「結婚おめでとう、って言うべきかな」

「はは。言われるほどのものでもないと思うけどね」

「でも次期皇王だよ。大層なことだと思うけど」

「まあ、そうなんだけど」


ジョウイは苦笑する。

にはその苦笑の意味が分からなかった。

政略結婚という形ではあっても、ジョウイとジルは愛し合っている――いや、愛し合って「いた」はずなのに。

イレギュラーの介入によって、こんなところに歪みが生じているとでもいうのだろうか。


「それはいいとして。話したいことがあるって言っていたよね?何だい?」

「ジョウイこそ。先にどうぞ」

「僕のは別に、大したことないから」

「私も別に。ただ何となく、何かを話したかっただけだから」

「……」

「……」

「雑談でもしようか」

「うん」






散らかった部屋に、静かに紅茶を飲む音だけが響く。

何かを話したいのに、何を話したらいいのか分からない。会話を交わしたいのに、それができない。

ふと視線を落としたの目線に、ジョウイが右手を押さえているのが見えた。

それが分かったのか、ジョウイはすぐに押さえていた手を離し、無理な笑顔(にはそう見えた)を作る。


「あの」


がどうしたのか聞こうと口を開いたと同時に、ノックの音が部屋に響いた。

先程の笑顔を消し去ったジョウイが慇懃に応じる。

「失礼します」という、少し高めの声が開いた扉の向こうから聞こえてきた。


「あ!お前!」


聞いたことのある声に目線をやると、猛将、シードがこちらを指差して立っていた。


「何でここにいるんだ!?」


どう返事したものか考えていると、スっとジョウイの手が猛将を制した。


「彼女は僕の客人だ」

「ですがそいつ…いや、その方は先程…!」

「詮索は無用だよ」

「…っ!」


ジョウイは手を下ろし、席を立つと2,3歩扉の方へ近づいた。


「それより、何か用かい?」

「あ、いえ、用があるのは俺ではなく…」

「私ですよ」


シードの後ろから少年が歩み出る。青い服に、手には大きな帽子を持っている。

落ち着いた薄い茶色の髪、姿は、その姿は――あの風の魔術師とそっくりで。


「ササライ殿?」

「ええ。もうすぐ婚儀の時間ですので、呼びにきました」

「わざわざすみません」

「いえ」


違うのは、目線の先にいる少年は微笑んでいるということだ。

ササライはの視線に気付くと、少しだけ笑みを深くした。


「そちらの方があなたのお客人ですね」

「はい。名前は、ええと…」


そういえば名乗っていなかったと今更に気付く。

は軽く、会釈程度に礼をして名乗る。


です」

「私はササライと申します。よろしくお願いしますね」


柔らかく、好感の持てる笑みを返され、もつられて笑んだ。多少引き攣りはしたが。

ササライはもう一度笑んで、ジョウイに向き直る。


「ジョウイ殿、急がないと遅れますよ」

「あ、はい。…ごめんね、。今度またゆっくり話そう」

「うん、またいつか」


ゆっくり話せる日が来るとは思えなかった。…少なくとも、今のままでは。











ジョウイはシードを案内役に、婚儀をする広間へと向かった。

服は控え室にすでに用意してあるらしい。

部屋にはササライとが残された。


「ササライ…様は行かなくてもいいんですか」


初対面であることだし、ジョウイが敬称をつけて呼んでいたのでもそれに倣う。

ササライは笑った。


「本来ならハルモニア代表として私も出席したほうが周辺諸国への圧力になるのでしょうけれど。

ハイランドはどうやら伝統的に内輪だけで婚儀をするそうです。

昔から周りに同盟国がなかったというのも理由のひとつではあるらしいのですが――あ、これは秘密ですよ。

呼びにきたのは暇だったからです。あ、でも部屋に残ったのは別の理由ですよ」


ササライはそこで言葉を一旦切る。


「あなたに聞きたいことがあったので」


そう言ってササライはおもむろに右手を甲が見えるようにして顔の横まで上げた。

右手は淡く光を放っていて、その中に何かの紋章が見える。おそらくは真の土の紋章なのだろう。

ササライの笑みが消える。


「あなたを見たときから、僅かですが紋章が疼き続けています。この感覚は以前、2度ほど経験したのみ」

「それは」

「前に疼いたのは、魔女――レックナートと、ジョウイ殿に会った時だけ…」


ササライはとの距離を詰める。は後ずさるが、大きすぎるテーブルがそれを阻止した。

右手を掴まれる。

少年との距離はあまりにも近い。

が何かを言う前に、少年の唇が言葉を紡いだ。




「あなたは、何者ですか?」




出口は少年の向こうにある。















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2004.7.18
2006.8.10加筆修正

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