携帯に「メール受信」の文字が表示された。

ただ一言、「さよなら」と記されただけの簡素なメール。


開け放した窓の外、蝉の声がやけに遠く聞こえた。






天球ディスターブ 1






充電中の携帯の画面を見て溜息をつく。

つい先刻振られてしまった。

先日、彼が女の子と歩いているのを見たと友人が言っていたから、

この場合自分は「捨てられた」ということになるのだろう。



携帯を充電器から外し、バッグに入れる。

そもそも今日はデートの予定だったのだ。よりによってこんな日に振るなんて。

さっきよりも深い溜息をついてベッドに寝転んだ。






目を開けると、夕焼けの光が目に入った。どうやら眠ってしまったらしい。

1日を無駄にしてしまったことに苦笑いをこぼす。

ゆっくりと上体を起こし、自分の服を見る。

デートだからと、思い切り女の子らしいヒラヒラした服を着ていたせいか、皺だらけだ。

今となっては馬鹿らしいことこのうえない。

気晴らしに散歩でもしようかと、窓の外に目を向ける。

夕方なので暑さも幾分和らいでいるだろう。



ベッドから降りようと体を向きなおし、足を床につけようと――したときだった。

背筋を冷たいものがものすごい勢いで通り抜けていく。

体を取り巻く浮遊感、そして落下時独特のあの恐怖感。

例えるならばバンジージャンプ、下りていくジェットコースター。





ベッドの下に、床なんて無かった。





反射的に上を向き手を伸ばそうとして愕然とした。

今まで自分のいた部屋が、どんどん小さな穴になっていく。

どんなに手を伸ばしても届かない。


「―――!」


呟いた言葉は、音になる前に闇に溶けた。








あれからどのくらいの時間落下しているのだろう。

こういうところは落下速度がゆっくりになっていくのだと、誰かの理論があった気がする。

辺りを見回せど、見えるのは相変わらずの暗闇。

落下による空気の音さえも聞こえないこの空間で、果たして自分は今も落ち続けているのだろうか。

それとも、もう落ちてしまったのだろうか。



急に視界がほんの少し明るくなった。

下を向くと、小さな白い光が少しずつ大きくなっていくのが見える。どうやら自分はまだ落ちていたようだ。

あれは出口か、はたまた底か。

底だったら、生きてはいられないだろう。



光に向かって落ちていく。

あれが底でないことを願うばかりだ。











光に近づくにつれて動悸が激しくなっていく。

忘れかけていた恐怖感が、また戻ってきた。



光の中に突入する。

目の前が真っ白になった。


『初めまして、


声が響く。

相手の姿は光が強すぎて見えない。


「誰ですか」

『私は――天球の紋章。27の真の紋章とは、似て非なるもの』

「真の紋章?」


不意に、最近やり終えたばかりのゲームを思い出す。

『幻想水滸伝』というゲーム。

とても好きで、今まで何度プレイしたか分からない。

もちろん全作。


『私は真の紋章ではありません。

真の紋章含め、全ての紋章を束ねる、紋章とは性質の異なる存在』

「…凄いんですね。でもそんなに凄い紋章が、どうしてここにあるんですか」


というよりも此処はどこなのだろう。夢だと決め付けるにはあまりにもリアルに過ぎる気がする。

手の甲を抓ると痛みも感じる。

――幻想水滸伝の世界なのだろうか。だが、そんな非現実的なことが果たして有り得るのか。


『あなたに、私を宿していただきたいのです』

「へ?」

『私には強大な力があります。その力で紋章を束ね、調整をしてきました。

しかし最近、真の紋章狩りというものが行われるようになりました』


「紋章狩り」という言葉に少しだけ息を呑む。聞き覚えがありすぎて眩暈がする。

ああ、何だか本当に幻水の世界みたいだ。


『このままでは、いずれ私の存在にも気付くでしょう。それは避けなくてはいけない。

気付かれる前に隠れなければならないのです。私の力は、世界を壊せるから』

「…ということは、あなたの存在は知られてないんですか?誰にも?」

『……いいえ、知られています。だからこそ隠れなければいけないのです』


頭が混乱する。もうここが幻水の世界でもなんでもいいとさえ思えてくる。


「それで、何で私に?もっとちゃんとした、その、魔法使いとかいう人のほうがいいと思いますけど」

『私を宿すには、相応の魔力の持ち主でなければならない。

あなたは、異世界の人間です。この世界とのアンバランスが強い魔力を生む』

「つまり私には魔力がある、と。

でも、それなら異世界の人間であれば誰でも良かったんじゃ?」

『ええ』


はっきり言われて少し落ち込むをよそに、紋章は続けた。


『――ですが、あなたの魔力が強いのは事実。そして、器も』

「器?」



『…宿して、いただけますか』






暫し、考える。

ここが幻水世界への入り口であることは百歩譲ってとりあえず認める。

自分に魔力があるということも了解しよう。

それから、目の前の紋章。

27の紋章とは違うとのことだが、具体的にはどこがどう違うのだろうか。


「あなたは、他の紋章とはどう違うんですか?私は、不老になる?」

『紋章はそれぞれ何らかの力を司っています。例えば火の紋章であれば火の力、というように。

私にはそれがありません。敢えて言うならば、世界のあらゆる力を司っていることになります。

五行の力はもちろん、天候を操ることも、何かを具現化することも可能です。もっとも、生命は操れませんが。

そして、これは他の真の紋章と同じです。…不老になります』


話を聞くだけで、その力の強さが垣間見える。

天候を操るなどそうそうできるものではない。

――そして不老。正直にいうと実感は全くない。不老になることのメリットもデメリットも、想像しかできない。


「私があなたを宿さなければ、どうなりますか?他の宿主を探すことは?」

『…………ハルモニアに見つかる前に、宿主を見つけることができれば、あるいは。

ただ、私を宿せる人間は限られています。

あなたを見つけ、そしてそれ以上に、ここへと招くことができたのは、私にとって幸運なのです』


そう言ったきり黙りこんだ紋章に、は細い息を吐いた。

そこまで言われてしまったら、もう。


「分かりました。宿します」

『…ありがとうございます』


相変わらず姿は見えず声しか聞こえなかったが、嬉しさの混じった声につい頬が緩む。


『では、右手を出してください』

「…はい」


ス、と右手を差し出す。

その瞬間右手の甲が、焼けてしまうのではないかと思うほどに熱くなった。



「うわ…!」



途端に訪れる浮遊感。

手の甲の痛みが、恐怖感から意識を守る。



は、また落ちていった。











暗闇の中、落ちていく。

さっきまでの痛みはもうない。代わりにあの強烈な光もない。

しかし、今回はさっきまでの落下とは違っていた。

下に青いものが見えているのだ。

その光に向かって、は落下していた。



光に近づく。


あと少し。




本日2度目の、光への突入をした。

そこに広がるのは青い空。

地面は遥か下方。

自分は、未だ落下中。


「ちょっと待てー!!」


雄たけびを上げる。

ヒラヒラした服ゆえにスカートなので、必死に裾を押さえる。

しかし、今はそんなことをしている場合ではなかった。

地面が近づいてきている。


「このままじゃ、本気で死ぬ!!」


しかしどうしろと。


「…そうだ、こんなときこそ紋章の力で…って、地面近い!!!」


あと十秒もしないうちに激突する予感。


「いや、ちょ、やめてやめて!う、浮いて!!お願い浮いて!!!」


さすがに浮くのは無理だろう。

そう思わないでもなかったが、こんな状況でまともに思考が働くわけがない。

地面との激突の予感に、身を強張らせた。


しかしこの紋章は、予想以上にとんでもないものだったらしい。






いつまでたっても来ない衝撃にはおそるおそる目を開けた。


「…へ?」


浮いている。

地面とディープキスをする覚悟だったので、心臓がバクバクいっている。

二、三度深呼吸をして気持ちを落ち着けた。


「…右に行ったり?」


ふよふよと、右に動く。


「……左には?」


左に動く。


「………上」


ゆっくりと、上へ上がる。


「…降ろして」


そしては大地に足をつけた。






見渡す限り一面の草原。

ここがどこなのか皆目見当がつかない。


「具現化できるんだったよね。地図も出せるのかな?」


紋章を見てそう言う。

右手に宿る、どこかプラネタリウムを連想させる形の、見たことのない紋章。

目の前に地図が現れた。


「おお。幻水世界の地図だ」


地図は現れたが。


「地図が出ても、何処にいるのかは分かんないしね」


はぁ、と溜息をついた。






急に風が吹いて、地図が空へと舞い上がった。

慌てて、地図を追いかけようと一歩踏み出す。

その瞬間。



ドスッ、と地面に何かが突き刺さる音がした。

驚いて振り向くと、そこにはウサギとピンク色の肌の女性(尻尾が付いている)、そしてむささび。

地面を見れば、さっきまで自分のいたところに斧が刺さっている。

顔から血の気が引くのを感じた。






ピンク色の肌の女性――ターゲットレディの合図とともに、むささびとカットバニーが襲ってくる。

に武器など何も無い。

あるのは、この紋章だけだ。


―――ファンタジーの王道らしく、バリアーとか作れないだろうか。


迫り来るモンスター達を見ながら、頭はどこか冷静だった。

だが、カットバニーが斧を振りかざしたとき、突然に恐怖心が沸き起こった。


――殺される…?


無意識に手で頭を覆う。

立っていることもできず、地面にへたりこむ。

もうだめだ、と思った。






――何かが弾かれる音がした。

何時までたっても斧が振り下ろされた気配のないことに疑問を持ち、ゆっくりと目を開けてみた。

モンスターたちは下を見ている。

何事かと思って地面に目を向けると、斧が、今度は地面に突き刺さることなくその身を横たえていた。

そして、自分の体が光っていることにも気付いた。



暫くするとその光は弱まってきて、消えた。

ははっとして、紋章の宿る右手を前に出して言った。


「――燃えろ!!」






炎がモンスター達を包んだ。

目の前の光景には目を見開く。

唇を噛んでせりあがってくる何かをこらえる。

口の中に、鉄の味が広がった。




今、自分は何をした?




足がガクガクと震えている。

それでもここにいてまた襲われるよりは、歩き回って人里を探したほうが良いに決まっている。


――次にモンスターに会ったときも、こうして殺してしまうのだろうか。


天球の紋章という力を使って。

そう思うと、自分が怖くなった。











草を踏みしめ、歩いていく。

自分の目は今、きっと虚ろなのだと思う。


足が止まる。


上を向いて、手で目を覆う。






歯を食いしばり、必死で涙をこらえた。















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2006.4.28加筆修正

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